日記:わかりあえない世界だとして
すみません、今日も短めで……そして結論のない話をしますね……。
人と人とは完全にわかりあうことはない。「育ってきた環境が違うから好き嫌いは否めない」というのは本当に的を射た言葉だと思う。それを踏まえた上で、わからない、理解しえないことを踏まえた上でちょうどいい距離の関係性を築く、というスタンスがどうしても正解とは言えないんじゃないかと思ってしまう自分がいる。
そのスタンスはどうしても一歩踏み込まない、執着しない、依存しないという方法論をとる気がする。それをあらゆる事象に対して適応してしまうと、自分が依拠する場所がどこにも無くなってしまうのではないのだろうか、という疑問を拭い去ることができない。ただ安住することができず中空に漂っていくしかないのではないか。それでは心の中でどこか安心できる絶対の場所が無くなってしまって、どうしても解消しようのない不安を抱えることになってしまわないかという恐怖が消えてくれない。
安心できる絶対の場所なんてない、いろんな存在の間で漂い生きてていくしかない、それが現実であり真実だというのならそうなのかもしれない。それでも自分は心のどこかで、愛だとかそういう絶対のようなもの、世界の答えのようなものを求めてしまっている。
いや、そんな妄想、御伽話、運命、そういった「それさえあれば救われるもの」をいつまでも夢想している方が、馬鹿らしいといえばそうなのかもしれない。でも、たとえそれが理想だったとしても、その理想を諦めることが行き着くべき方法論ではないのだと、どうにも認めがたい心持ちはある。
ここに「理想」というテーゼと、「現実」というアンチテーゼがある。すなわち、「人はわかりあうことができる」という理想と、「人はわかりあうことなどできない」という現実が対立している。我々が生きているのはどうしたって現実であり、思い描く理想との葛藤が起こる。両者の止揚とは、理想と現実の折り合いをつけながら、地続きの明日を生きていくことにある。理想をただ盲信するのでもない、現実を諦観のうちに漂うのでもない、2つの世界の境界を歩いていくことが、叶わぬ夢を呪いに変えないための方法論なのではないか。
わかりあえない世界で、それでもわかろうとする姿勢は持っていたいと思う。
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