日記:青春の不在

ゆっくりとした休日。やりたいことはいろいろある。とりあえずソシャゲのイベントを終わらせなければ……。

平日はあまり時間がなくて、休日は予定が入っていたり期間限定のコンテンツを追ったりするのに身をやつしていると、時間は瞬く間に溶けていく。こういう過ごし方でいいのだろうか。将来の役に立つ勉強とかしなくていいんだろうか。そもそも、いまが子供の頃に思い描いていた「将来」というやつでは? だとしたら、正しい場所に辿り着けているのだろうか。

「ここではないどこか」に行きたいといつも願っている。でもその欲望はどこまでいっても果たされることはないのかもしれない。たとえ世界の果てに辿り着いたとしても、きっとその場所ではないどこかに思いを馳せてしまうからだ。人生とは終わりなき旅路を行くが如し。

昨日は『耳をすませば』がテレビで放送されていたらしい。子供の頃に見て死にたくなった。眩しすぎる青春がそこにはある。その輝きは、きっと自分には手が届かないものだ。あのとき感じた苦しさは、そういう憧憬と諦念からくるものなのだろうか。

上の記事を読んで、「届かない青春」は誰にでもあるのだということを考えた。青春とはそもそも期間限定の特別なものだ。基本的に取り返しがつかない。そして人は他人の人生を生きられないのであるからして、要するに過去の青春を生き直すことはできないし、他人の青春を生きようとすることもまたできない。一度きりの青春。それが映画で描かれるような輝きを放つかというと、一定数の人は首を横に振るのではないか。もちろん、それで自分の青春が価値を損なうということはない。しかし、理想的な青春があるという前提のうえで、それと比較してしまうと、どうしたって心の空虚を覚えることはあるのかもしれない。そういう青春が「在る」ものだと認識してしまうからこそ、その不在が喪失となって感じられる。青春への憧憬とは、そんな幻肢痛だ。

自分は、いまとなっては、青春の不在に対して痛みを覚えることは少なくなった。自分の人生だって結構楽しいものだと思えるし(幸福なことに)、そこには「自分が体験した」という価値が付随する。それは自分にとってこのうえなく特別な価値だ。自分は自分の人生を生きている、そう思えるからこそ、他人の青春がどれだけ眩しい光を放っていようと、自分とは違うものだと感じる。

憧憬が消えてくれたわけではない。青春がたまに心を灼く。その波は周期的に訪れるけれど、夏は特にそんな感傷が呼び起こされる季節なのかもしれない。あの頃の夏休みが特別な時間なのだと、そう気付いたときにはもう取り返せないところにいた。当時はそういうことに気付かないでいた。夏を夏だと思える人だけが、青春を青春だと思える人だけが、眩しい青春を生きることができるのかもしれない。だとしたら自分はそういう資格がなかったのだと思う。

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