日記:座標と恐怖
世界から次第に新鮮さが失われていって、それでも新しい領域に踏み出そうとするのだけれど、いつか新しいことそれ自体に慣れていってしまったらどうしようという恐怖がある。慣れないまま予測不可能な未来も恐ろしいけれど、すべてが予定調和の世界もそれはそれで色彩を欠いて映る。いつか灰色になる世界が怖い。
世界がつまらなくなるのは、自分がつまらなくなったからだという言葉もある。そうかもしれない。
眠いとき、電車に乗っている時間はほとんど無意識だ。自らの意思に関係なく、ただ物理的な座標だけが運ばれていく。その強制力が好きといえば好きだし、嫌いといえば嫌いだ。旅とは、空間を切り替えることで土地に絡みついた精神をリセットする意味合いがあるような気がしていて、その効用をもたらすのは移動距離による心のスイッチングだ。美味しいご飯を食べて、温泉に入って、ゆっくりと寝る。それは旅先でなくてもできるのかもしれないが、しかし旅であることに意味があるのだと思う。
翻って、移動とは半ば強制的に行われるものである。自転車や自動車ならまだしも、公共交通機関はひとたび乗ってしまえば駅以外の場所で降りることはできない。飛行機に乗れば途中で飛び降りることは叶わず、目的地までじっと耐えるしかない。旅のような自発的な目的ならよいが、他者から与えられた理由によって座標を大きく動かされることは、時として避けられぬ恐怖にも思える。
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