日記:採点結果をおしえて

矯正歯科に通っていて、それが一区切りついたと思ったら、「虫歯があるのでまた来てください」と言われて、今日その受診に行ってきた。

「もっとちゃんと歯磨かないと駄目ですね」と言われた。

大人になってから怒られるのは凹むぜ…………。

「このままだと歯周病になっちゃいますよ」とも言われた。

怖いぜ…………。


毎年の健康診断では歯までは見られない。だから歯の健康については歯医者にかかるしかないのだけれど、定期的な歯科検診は別に義務ではない。だから、知らないうちに歯が大変なことになってしまっていたとしても、痛みなどの違和感を覚えない限りそのまま放置されてしまうのではないか。医師による診断が必要なのに、それを怠ることでどうしようもないくらいに悪化が進んでしまう。自分はまだ不調を訴える前の段階で指摘を受けることができたのだが、これは幸運なことのようにも思える。

毎日当たり前のように行う歯磨きという行為について、それが本当に正しい手順に則っているのかを確かめる術はかなり限られるのではないだろうか。Webを検索すればそれを知ることはできるのだが、しかし人は「自分の歯磨きの手順が間違っている」ということに気がつかない。そんなことは思いもしない。正解と照らし合わせる機会がないからだ。

人は生きていく中で多くの採点に曝され、間違いを訂正しながら生きていく。しかし大人になるにつれて採点されるということがなくなっていく。正確には、なくなっているのではなく見えなくなっているだけだ。人は暗黙のうちに採点を行い、不合格であれば何も言わずに遠ざかっていく。気付かなかっただけで、自分は今までにどれだけの不合格を受けとっているのだろうか?


暗黙の不合格通知を受けとるよりは、面と向かって駄目なところを指摘された方がずっといい。自分は心が弱いので、指摘を受けると思わず委縮してしまうのだけれど、しかし指摘と人格批判は異なるものである。両者は見分けるのが難しいこともあるが(特に自分が無知である領域において。判断基準が自分の中にないので相手の言葉をそのまま受け止めるしかないのだが、指摘と人格批判の分類の判断もつかないので困ったものだ)、しかし指摘というのは相手に利するという目的でなければ出てこない。そうでなければ黙っていればいいだけの話だ。例えそれが仕事であったとしても、指摘には一定の勇気が必要であるように思える。そのコストを支払ってまで自分へと言葉をかけてくれた相手には、やはり感謝しかない。凹むは凹むけど…………。



服を買おうと思って訪れた店舗でブラックフライデーのセールが行われていて、それが「全品40%off」という「そんなことして大丈夫?」と思うような割引率であったので。セールに目が眩んでしまい、あまり値段を気にせず手に取ってしまったのだけれど、レジを通す段階でそれなりの金額になってしまっていたので驚いた。元々の値が張るものだった。節制しなければ……。こういうことを年中繰り返しているので、常に節制が頭の中に浮かんでいる。しかしそれは衝動の前ではあまりに無力で、別の手段を講じる必要があるのだろう。それが何であるのかは思いつきそうにないが…………(思いついたらやっているので…………)。

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