日記:井の中の自分

変わり映えのしない毎日を生きているけれども、こっちはそれなりに必死に足掻いていて、そこそこに楽しい感じで過ごしている。そりゃあ合格点はあげられないし、反省点も多くて日々自分の無力さを痛感しているのだけれど、それでも目の前の世界を歩いていこうとは思える。だからまあ、自分はきっと信じられないくらいに幸福なのだろう。満たされていることに気付かないくらいに。

もしかしたら自分はただの井の中の蛙で、あまりにも小さな幸福の欠片を大切に抱きしめているだけなのかもしれない。ある日、井戸の外から誰かがやってきて、きっとこんなことを言うのだ。「お前は決して幸福などではなく、ただ周りが見えていないだけで、何もできない自分から目を逸らそうとしているだけにすぎない。一刻も早くそこから抜け出す努力をしなければならない。そうでなければ、いつか本当にどうしようもなくなってしまったときに、涙も出ずに絶望の中に取り残されることになる」

それは間違っていないのだと思う。自分には、自分が見えているものしか見えていないのだから。それを井戸の壁と言うのなら、世界はどこまでいっても井戸の内側でしかない。誰しも、自分が作り上げた固定観念の中から抜け出すことなどできない。

「それは詭弁だな。もしお前の言っていることが正しいとして、それでも個々が持つ井戸の大きさは異なる。お前の持つ井戸は、あまりにも小さい。それに、井戸の外に世界があるなんて考えもしないだろう。いや、考えられないというべきか」

そうだ、自分はあまりに無力で、世界とかそういう大きなことは、現実逃避でしか考えたことがない。世界はいつだって、自分の手に負えないところをぐるぐると回っている。自分が見えている小さな範囲ですらままならないのだから、どうしてその外側のことを考えられるというのだろう?

「それでも知らなければならない。知ろうとしなければならない。無力は無知の免罪符ではない。無力は罪ではないが無知は罪だ。それをするための責任と義務があるのだから」

それは苦しく辛いことだ。それでもなお、誰もが歩むことになる毎日なのだろう。そういう日々を、きっと明日も生きていかなければならない。

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