日記:愛はどこまで普遍性を持つか

遅くなってしまったので短めにします!


『きのう何食べた?』のドラマを見始めました。めちゃめちゃ面白い…………。

映画館に行くとたまに予告が流れていて、それを見る限りでは平穏な日常が流れていく物語なのかなと思っていたけれど、そしてそれはある意味で正しいのだけれど、しかしそれだけではない。そこにはどこまでもシビアな現実があり、だからこそ2人が囲む食卓が暖かく映る。2人の生活が、かけがえのない眩しさを持って響く。

映画が上映されているとのことで、ぜひ劇場で見てほしいと知人から薦められたので、なんとか見に行けるといいな……。現在5話。


愛とはどこまでも当事者間の問題である。多くの人が愛という名で何かを語るが、それらはそれぞれで異なった形をしているはずだ。誰しもに共通する愛というものがあるわけではなく、それぞれにとっての愛がある。それは関係性や環境といった様々なパラメータによって形作られるものであるから、全く同じ人生がないように、全く同じ愛というのもまた存在しないように思える。だとすれば、愛が何かということを普遍的な理論で語ることはできないのだろうか?大枠を語ることはできれど、深く掘り下げていけばいくほど共通点を持たなくなるのが愛なのだろうか?

誰しもに向けられる愛とは博愛である。そして、一般にパートナーや親子の間に見られる愛とは、ある意味で排他的な性質を持つ。博愛は遍在だとすれば、愛とは偏在である。両者の性質は大きく異なり、相容れることはない。お互いに相手の性質を否定することによって、それぞれの価値を保っているからだ。博愛とは、誰か一人にのみ注がれる愛という不平等を認めない。愛とは、誰もが平等に扱われることを否定し、あなただから特別なのだと叫ぶ。

だから、愛に対して外部からの承認は不要のはずである。しかし現代社会は愛を商品のように扱う。愛を持ち、注ぐことのできる性質に称賛を贈る。愛こそが何よりも尊いものだと評価する。それは、本来当事者の間でのみ存在していたはずの愛を普遍的な評価の俎上へと引きずり出そうとする試みである。そうした振る舞いからは、愛に絶対の基準があるかのようにも思われる。愛に基準はあるのだろうか?博愛ならぬ愛の普遍性とは一体何であろうか?


そんなことを1話を見ながら考えていました。別にそういう話だったわけではないのですが……。とにかく面白い作品なので、映画を見るのが楽しみです……。

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