日記:いつか裁かれる
週の初めから夜が遅いので短めにしよう……(毎週言ってない?)
いわゆる炎上しているニュースを見ても、「馬鹿だな」とは思わない。「自分もいつかそうなってしまうかもしれない」と思う。自分の心の中の思惑をすべて曝け出したら、絶対に言ってはならないことが割と幾つも出てくる気がする。だから怖い。いつか自分という悪が裁かれる日が来るのではないかということが。
清廉潔白な聖人君子なんて滅多にいないのだから、誰しも脛に傷くらいはあるだろうけれど、それでも世間の人々は表向きには「そんなことないですよ」という顔をして歩いているし、少しでも悪を見つけようものなら死力を尽くして断罪する。ように見える。だからきっと、自分が悪を露呈しようものなら、当然のごとく裁かれるのだろう。悪が裁かれるのは正しい。正しさに殉じるのは怖くはない。それが怖いと思うのは、正義の御旗の下に力が苛烈さを増して、暴走してしまうような気がするからだ。
日々インターネットに日記を晒しておいてどの口が言うのかと言う気もするが、それでも何かのきっかけで自分が裁かれる側になってしまったらどうしようと思う。昔より個人を発信することに対して世間的に抵抗はなくなっているとは思うけれど、それによって免罪されるというわけでもない。ただ発信する者も少しずつ学んでいるのだというだけで、わずかでも足を踏み外せばちゃんと落ちていく。正しさとはそういう均衡の上に成り立っているものだと思うし、自分がそれを崩さないという自信もない。
その日はもしかしたら明日なのかもしれない。そう思うとやっぱり怖い。でも踏み出してこそ得られる何かもあると思うし(悪に踏み出すと言うわけではなくて、発信することのリスクを背負ってそれでも踏み出すと言うこと)、そして人間とは何らかの形で発信と受信をしながら社会の構成員となるわけで、そこに身を浸している以上リスクがないということはあり得ないのだと思う。もし自分が存在を許されない社会にとっての悪なのだとしたら、その断罪を受け入れるのも吝かではない。自分1人がいなくなることで社会が少しでもうまく回るのだとしたら、別に自分はそれでいい。願わくば、その裁きが少しでもいいから痛みの少ない方法であると嬉しい。
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