日記:予定と衝動

昨日は疲れて日記を書かずに寝てしまった。とはいってもここ最近はほとんど起きてから日記を書いているのだけれど。それでも昨日は一応の逡巡があった。週末だから少しくらいは夜更かしも許されるし、たまには深夜の自分の思考と向き合うのもよいだろうと思っていた。しかしそれを実行に移すには脳の働きが十分ではなかった。疲労で脳の回路が焼き付いている感覚。この感覚は他の人にもあるのだろうか? 表立って言語化したことがないからわからないが、要するに昨日の自分は疲れていたのだった。

だからせめて目が覚めてからゆっくりと日記を書こうと思った。幸い予定は午後からだし、遅めの起床を迎えてから睡眠を十分にとった頭で机に向かい、朝食(というか昼食)をすませてから読みかけの本を読んで、それから出かければ良いだろうと、そう算段を立てていた。

結果、この日記は電車の中で書いている。いつまでも眠気がおさまらず、睡眠と覚醒を繰り返しながらたまにスマホを開くという時間を過ごしていたら、いつの間にか時計の針は出掛けなければならない時刻を指していた。有意義な休日とはほど遠い。

こういう時間を幾度となく過ごしてきた。だから意識的に予定を入れて、無理やり自分を突き動かすことで解決をはかろうとしたこともあったのだが、その手法では予定として成立するものしか組み込むことができないという弱点がある。自分にとって「本を読む」とか「ゲームをする」とかは予定ではない。衝動を抑えられず無我夢中で寝食も忘れて向き合ってしまうものである。どうして衝動を予定に組み込むことができようか。

換言すれば、自分の中にそうした衝動が消えつつあるということを意味しているのかもしれない。昔は好きな作家の本やゲームをひたすら繰り返していた。手広く網羅していたわけではないけれど、それでも好きなものに対する熱量は大きかったように思う。

そんな熱が今も自分の中にあるだろうか。というよりは、それなりにたくさんのものを知ってしまったが故に、それぞれの価値が相対化されて、結果としてひとつのものに対する熱量は薄れてしまったような気がする。昔は知っているものが少なかったから、ただそれだけを愛していた。それだけが世界のすべてだと思った。というか、そこから世界が広がっていると思えた。

あの頃の衝動を擬制しようとして、どうにかして自分を突き動かすために予定を立てるのが今の自分なのかもしれない。その予定が自分に衝動をもたらしてくれるのではないかと期待している。でもきっと、そういう理性では得られないところに衝動や熱はあるのではないかとも思う。

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