日記:語りたいけど語りたくない
シャニマス有識者会談を見た!
並ぶ面々が生身の人間半分、バーチャルな方が半分で映像的にも面白いことになっていた。あれはどうやって映像を出力しているのだろう?実際にあの場にいる方々にもバーチャル世界の住人の姿は見えていたのだろうか?初音ミクさんのライブだとかアイマスのMRライブだとかバーチャルYouTuberの方々のライブだとか、そういったあれこれと同様の技術だったりするのだろうか?そうだとすると、1時間ほどの配信にそうした機材を導入できるほどにコストが下がっているということなのだろうか。わからない。全部わからないままに言っているけれど、バーチャルの世界は生活のすぐそばまで近づいてきているということかもしれない。このまま交わっていくかどうかはわからないけれど。交わってほしいな。
好きなものについて熱をもって語るということが1つのコンテンツと化している世の中ではあって、実際に今日の配信みたいな内容はめちゃくちゃ楽しいのだけれど、そこにあるのはどういった感情なのだろうか。自分の中で上手く言語化できていなかったものが相応しい形をとって表現されることの喜びだろうか。それはかなりある。配信の中で語られていたことと同じような方向性のことは自分もぼんやりと感じていて、しかしそれは明確に言葉へと変えることができなかった感情なのだと思う。そこが整理されていく快感というか、単純に共感の喜びがそこにはある。同じコンテンツが好きな人をTwitterで何人もフォローしているのに、それでは収まらない欲求が自分の中にはまだあるのだと気付いた。これは結局、自分が掘り下げをあまりできていないというところになるような気がする。
しかしそれを自分の拙い言葉で表現しようとすると、元の作品に存在している純粋なる輝きをただ濁らせるだけのデチューンにしかならないのが嫌で、言語化することを躊躇ってしまうところがある。
そうはいっても自分は日記で作品の感想を書いていたりすることはあるが、それは(少なくとも自分の観測範囲において)感想を見かけることがないから、どうにかして自分の言葉で書き下しておこうというのが、心の動きを表現したものとしては近しい気がする。探せばインターネットにはたくさん良質な感想が存在しているのだろうけれど、今のところ自分は、それを探すよりも自分で書いてしまう方がコストが低いと捉えているようである。それは勿論、錯覚なのですが。でも錯覚に呑まれてないと自分のような人間は日記が書けないような気もする。
話を戻すと、シャニマスは何もしなくてもたくさん感想がTLに流れてくるので、自分の言葉で表すよりもずっと優れたものが待っているだけで読めるから、それでいいかなと思ってしまっている節がある。優れた、というのは自分の精神にとって心地よい、という意味で、そういうものは自分で書けば自然とそれらしいものは出来上がるのだけれど、結局のところ何かを真似て作ったジェネリックでしかない。それよりもずっと自分の欲するものを誰かが形作ってくれていて、それが自分にとってちょうどいいと感じられる。シャニマスの感想を呟きたいと思って作ったアカウントだったけれど(このnoteもそういう目的があったといえばあったのだけれど)、自分が欲しいと思う情報を集めていく過程で、それで良いかと満足しているところがある。
しかしどこかで、ちゃんと自分の言葉で語らなければダメだ、とも思う。他人の言葉じゃダメだ……(これも他人の言葉だけれど……)。どんなにもっともらしく聞こえようと、それに自分の魂が頷いていなければ所詮は借り物の上っ面で、そういうのはどこかで破綻してしまう。自分の中で押しとどめている分にはまだいいのだけれど、借りた言葉で外に出ていこうとすると、大抵ぼろが出る(自分が不器用なだけかもしれないが)。どんなに拙くても、自分の実存から地続きの言葉でなければ戦うことはできない(何と?)。
じゃあ、シャニマスのシナリオを自分の言葉で語ってよいのかというと、やっぱりそれは憚られてしまう。シナリオの中で彼女たちが挑み思いやり立ち上がる姿はどうしたって彼女たち自身のもので、そこに自分という存在が立ち入る隙はどこにもないように思える。自分の中から出た言葉で彼女たちを語るという行為は、どうしても立ち入ってはならない領域のような気がして、結局言葉にならないまま終わっていく。ちょうどいい距離を保ったまま感想を言葉にできればよいのだけれど、シャニマスを追いかけ始めてから2年半、未だにその均衡点を見つけることができていない。語ればその拙さに苦しみ、語らなければその薄っぺらさに苦しむ。どうすればいいんだ…………(それはそれとしてちゃんとゲームは楽しんでいるけれど)。
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