日記:なんでもない振りをして

昨日の2時22分にスクリーンショットを撮った段階では、「2022年2月22日22時22分」のほうが2が多いという事実に気がついていなかった。そういう早とちりをしてしまうところがある。どこかで必ず見落としがある。もう自分に責任あるタスクを任せないでほしい。絶対にどこかで過ちがあるから。

別にわざわざスクリーンショットを撮らなくてもよかったのだけれど、しかしひとたび気にしてしまえば、それを逃すとどうにも後悔が残るような気がする。それを認識してしまった時点で、どうあれ逃れられないのだ。まるで呪いのように。

そういうどうでもいい符牒にばかり気を取られてしまうから、なにをするにも二の足を踏んでしまうところがあって、結果として怠惰な性質をより強固なものにしている気がする。「ふさわしい時が来たら積んでいる本を読もう」とか「やりたいことはあるけれど折角ならその前にいろいろと備えておきたい」とか、そういう理由で踏み出さないでいるから、いつまで経ってもなにもしないままの自分だけがそこにいる。言い訳はいいから不完全でも動き出したほうがいいのだろう。動き出して、止まらないようにしていれば、いつしかそれが普通になる。

だからこの日記はなんの区切りでもない日にはじめたのだった。もし1月1日にはじめようとか意気込んでいたりしたら、自分の場合は結局「いまはそのときではない」と言い訳をして来年まで先延ばしにしていただろうから。何かをはじめるのなら、いまが一番よい日なのだろう。きっと何事も。

そんな感じの衝動ではじめたこの日記も、少し前に300日連続更新を達成していた。もう2ヶ月かそこらで1年経ってしまうというのは、時の流れのあまりの早さに恐怖を覚えるほかないのだが、しかし自分がここまで毎日続けられたことなどほかになく、それについていろいろと思うところはあるものの、ひとまずはよくもここまで続けたものだと自らに対する感嘆の念がある。

1年を前にしてこんなことを言っていたら、目前で連続投稿が途切れてしまうフラグかなにかではないかと思ってしまうし、実際いつも自分がふとした瞬間に日記を書かなくなってしまいそうで恐ろしくなる。これも呪いのようなものだ。もうはじめてしまったから、後戻りはできない。やめてしまったら、どうあれそこで後悔が残る。それは、あらゆる物事が終わりを内包している以上、はじまってしまったものがどうしたって抱える構造的な問題であって、それでも生きていくうえでは死ばかりを見つめてはいられない。だからなんでもない振りをして、いつもと変わらない/かけがえのない日常を歩いていく。

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