日記:上を向くための寂寥

今日も今日とてシャニマスのライブを見ていました。ついに千秋楽。

本当に素晴らしかったです。3月の2ndライブから2ヶ月間、シャニマスに囲まれて日々を生きるのが楽しかったです。困難な状況の中、ライブの成功に尽力してくださった関係者の方々には頭が上がりません。シャニマスからたくさんの喜びを貰いました。感謝の言葉しかないです。

公演を経るごとに進化していく表現、ソロ曲の披露、そして新ユニットSHHisの初ステージ。全てのステージに並々ならぬ力の結集があり、その練り上げられたパフォーマンスにずっと圧倒され魅了されていた。自分には想像もつかないほどの努力があったのだと思う。ソロ曲のステージについては、今までユニットで立っていた場所に、一人で歌唱とダンスをこなさなければならないわけで、その重圧はずっと大きなものなのではないかと思うし、(正式には)初参戦のSHHisのお二人もとんでもないプレッシャーがあったのではないかと思う。だから、ひたすらに素晴らしいステージが、それ以上に果てしなく大きな、関係者の皆さんの努力の積み重ねの上に存在するものなのではないかと思うのだ。僕はその大きさにただ平伏すことしかできない。

公演のたびに常に新しい衝撃を感じさせられる。その度に勇気をもらっている。あらゆる努力を払い、この最高のステージがあるのだと。それに魅せられるたびに、自分の存在が小さく思える。観客として、あのステージを追いかけられる自分でいなければ、と襟を正す思いになる。「バットマンならどうするかな?」と子供に尋ねることで自らを見つめ直させるバットマン効果よろしく、「あのステージに立った演者さんならどうするだろう?」「あのライブを成功させた関係者の方々だったら?」「283プロのアイドルならどうするだろう?」「プロデューサーならどうする?」ということを本気で考えてしまい、そのたびに正しくあらねば、と思い直す。結局、自分に何かができるわけではないのだけれど。



自分はライブというものに行ったことがなかった。失ってしまうことが怖かったからだ。

ライブ、というかイベントは基本的にその場限りのもので、後からその熱を再現することはできない。パッケージ化されることもあるけれど、現地の最前列で見た熱狂がそのまま蘇ることはない。まあ、全ての時間は今という瞬間を過ぎてすぐさま失われてしまうものであるし、何もライブというものに限ったものではない。その全てを惜しむべきなのだけれど(2015年Tmitterの最後に登場したカレンちゃん)。

このTYPE-MOONのエイプリルフール企画にしたって、もう当時そのままのTwitterのログを遡ることはできない。思い出の中に焼き付いて、実体を持たないまま、けれど確かにそこにあるものとして存在し続ける。記憶とは、過去とはそういうものである(参考:「大豆田とわ子と三人の元夫」7話)。

ついこの間までは待ち遠しい未来だったライブが、あっという間に今になり、そして次の瞬間には過去になってしまう。それは喪失ではないか。それを味わうくらいなら、ライブに行かない方がいい。きっと自分は、それを寂しく思ってしまう。喪失が心に開けた穴を痛みとして必要以上に強く認識してしまう。失ってしまうことが怖いなら、きっと最初から知らない方がいいのだ。

だからライブには行ったことがなかった。音楽コンテンツにあまり縁がなかったということもあるけれど。


2019年の5月頃に、シャニマスというゲームが気になって手を出した。アイドルマスターシリーズはアニメを少し見たくらいで殆ど知識がなかった。

そこには、等身大の悩みにぶつかりながら日々を生きるアイドルたちの姿があった。彼女たちが挑む壁は、質感こそ違えど自分の人生の中にもきっと存在した壁であり、それに自分と同じように悩みながら向き合っていく姿に気づけば心を奪われていた。

シャニマスというコンテンツを知っていく中で、2019年の秋頃に「プロデューサー感謝祭」というイベントが開催されることを知った。トークパートとライブパートがあり、その様子はオンラインでも無料で同時配信されるとのことだった。それまでは演者さんの生配信やラジオも聞いてはいなかったのだけれど、軽い気持ちで見てみることにした。

そこで圧倒された。

正直、何に圧倒されたのかをちゃんと覚えてはいない。ただ、気付けばアソビストアのプレミアム会員に登録してシャニラジのバックナンバーを聴き漁り、1stライブ直前の回まで聞くことでできるだけ当時の空気感を認識した上で、1stライブのBDを視聴していた。そのステージに圧倒され、最後の挨拶の時には気付けば涙を流していた。完全にハマってしまっていた。いつか現地に行くぞ、と決意した。

初めての現地は今年の3月に開催された2ndライブだった。去年開催予定だったものが延期になっていたものである。去年のうちにライブグッズは揃えていたものの、1年経ってようやく振るう時がきた。

現地で体験するライブは、ただただ凄まじかった。身体を揺さぶる音響に、空間そのものを別物に変えてしまう照明演出。そして自分の目線の先に、アイドルが立つステージがある。その空間に臨場しているという感覚が、何故だか抑えきれないほどの熱を感じさせていた。発声はできなかったため、それまでの一般的なライブとは違うものだったのかもしれない。でも、自分があの場で必死にペンライトを振った時の興奮は、今までに覚えたことのない感情だった。これは、やめられなくなってしまうなあと思った。


そこから3rdライブツアーがあり、気付けば公演を全て追いかけていた。東京公演のday1は現地で参加することができ、高まる心を表現するようにペンライトを振った。ライブを追いかける日々は楽しかった。3月の2ndライブからずっと続いていた楽しい時間。それが今日、ひとまず終わったのだ。ライブという熱狂は記憶となった。

なんだか心が宙に浮いてしまったような感覚があった。これは喪失感なのだろうか。確かにライブは終わってしまった。けれど喪失と呼ぶにはいささか趣が異なる。あのステージは、あの熱狂は、確かに存在したものだからだ。その事実が消えることはない。ならば、それを失ったと捉えるのは相応しくないと思った。

感じたのは「距離」だった。あの輝かしいステージを、自分は見ているだけだった。画面の向こうからただ見ているだけだった。アイドルマスターのユーザーは「プロデューサー」と呼ばれるが、その名に値するだけの何かを自分は為せたのだろうか。答えはきっとNOだ。

言うなればきっと、推しとの距離を感じてしまった。今まで自分には「推し」という概念がよくわからなくて、知るために「推し、燃ゆ」を読んだりした。きっと、そこに描かれていた感情と似たようなものが、いま自分の中に生じているのかもしれないと思った。「遠い」。この世の何が悪いとかそういうわけではなくて、ただ事実としてそのことを考えてしまった。あまり自分は推しという感情を心の中に住まわせるには向いていないのかもしれない。どうしても不健康な方向に思考が向かってしまう。


その距離を埋めるための希望。人が前へと進んでいくための勇気は、それもライブが与えてくれたものだった。だから多分、ライブが終わってしまった明日を生きていけると思う。夢のような時間は終わり、そこには美しい記憶だけが残る。思い出を胸に、その熱を原動力に、人はきっと未来を向くことができる。

全てを貰ったのだ。輝かしい世界も、その勇気も。ライブによって僕は、上を向かされてしまったのだ。眩しいステージから目を逸らせなかったあの時のように。

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