日記:忘却と再生

何も書ける気がしないので今日の日記は省エネにするか……。

しかし省エネといってもどうすればいいのだろうか。昨日みたいな感覚だけで突き進む文章は割とスムーズに書けたりする(たしか30分くらいで書けたはず)。逆に何かの感想やレポート的な内容になるとかなり時間がかかる(先日の283フェスのときの日記など)。

これは感覚的に書き進められる文章が自分の心をただ言葉におこしていくだけの簡単な作業(言葉にできないものは無理して表現しないようにしている。この領域まで踏み込もうとすると今度は時間がかかる)であるのに対して、外界に対する反応を言葉にする場合は、えてして自分の中には存在しない概念を探さなければならないからだ。自分のことを書くなら自分の言葉で書けば良いのだが、他者について語るのならそれは独りよがりの言葉であってはならない。そうやって言葉を選んでいくので、どうしても時間がかかる。独り言の方が慣れてしまっている。


省エネ……ということで最近撮った写真でも貼ろうかな……

ソラマチに行ったときのカービィ。かわいいね……。任天堂のゲームはもちろんめちゃめちゃに売れているわけだけれど、キャラクターを押し出した展開がされるようになったのは割と最近なのではないかという個人的な印象がある。USJに任天堂のエリアもできたし。USJ、行ったことないですが……。オリバンダーのお店で杖を買いに行きたい。ホグズミードを練り歩きたい。

自分はカービィの熱心なファンというわけではないが、それでも子供の頃はゲームボーイアドバンスで鏡の大迷宮をめちゃめちゃ遊んだし、子供らしく自分でコピー能力を考えたりもしていたから、それなりに思い入れはある。そんなキャラクターがこうしてそのキャラクター性を持って展開しているのは、とても嬉しいものである。そうやって商業的に成功している限り、キャラクターもまた存在し続けるということだから。子供の頃に好きだったキャラクターが今も人気を持ち続けているというのは幸運なことだと思う。形而上の存在は、しかし決して永遠ではないのだ。存在する限り生き続ける生物と違って、概念としてのキャラクターは忘却をもってその寿命を終える。それはほとんどの場合、人間よりも短い。30年前に少年漫画雑誌で連載されていた漫画のことを人間は覚えていられるだろうか?20年前に街の小さな映画館で見たアニメ映画のキャラクターは?10年前にネットの片隅で盛り上がったミームは?1ヶ月前にバズったTwitter漫画のヒロインを覚えているか?

忘却とは死に等しい。そして私の記憶は日々死んでいく。だが生物の死と異なるのは、記憶は蘇るという点である。部屋を掃除していたら出てきた絵本を見て、それが好きだった子供の頃の記憶が突如として溢れ出してくる……といったことはよくある。そしてそれをつなぎとめるのが、物質的な存在であり、それを遍く広げていくという点で、キャラクターとしての展開が続いていくのはとても喜ばしいことだと思える。この世に永遠などないのだとしても、そのときばかりはそんな夢を、いつまでもそこにかつて愛した存在があり続けるという幻を、信じられるような気がするから。


もっと省エネの日記にするつもりだったけど……まあいいか……。

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