日記:感性に任せたいとき

今日は理性ではなく感性の日記にしよう

普段の日記もあれは理性的といえるのか? まあいいか

今日はなんだか寒かった気がする、冬はまだ終わらないのか、別に冬はすきだからいいのだけれど

春の訪れが怖い、何かがはじまってしまうのが怖い、もう戻れない場所へと踏み出していくことが怖い

でも人生ってそういうものですよね、いつか来る終わりに向かって誰もが歩み続けている

最後の日に笑っていられるのならそれは幸福な人生なのだろうか

わからないですね、人生1回目なので……

最近知ったのですが、人生2回あるらしい


これは感性の日記といえるのか? 単なる省エネではないか?

しかし言葉で修飾することを諦めたことによる速度で辿り着ける場所というのもきっとあるはず

後から読むとよくわからないだけで(致命的)

最近あんまり自分の書いた日記を読み返しておらず、たまに読み返したとしても何を言っているのだか訳がわからないことが多々ある

そんな文章を読ませてしまって申し訳ないですね……反省はするのだけれど改善にはつながらない、忘れてしまうので

後悔はむしろ感じなくなってきた、それに足る努力を自分がしていないと思うからだ、後悔する資格が自分にはない


なぜ今日はこういう日記にしたかというと、さっきまでやっていたゲームで号泣してしまい、いつもみたいな長文を書けないし書きたくないと思ったから

長文を書くと頭が理性に寄りすぎてしまう、でも感情が熱暴走したいまの状態を冷ましたくはなかった

でも時間が経って少しずつ冷めてきた、ようやく落ち着いてきた

号泣したときのテンションでゲームを薦めるのはむしろ余計な情報を付加してしまう気がするのでここでは名前は出さないことにしよう、何日か経って落ち着いたら書こうかな


目頭が熱くなったり涙が零れるくらいのことはまああるのだが、号泣といえるほどになるのは自分はあまりない、年に1度あるかないか

そのどれもが映画などの作品に触れた結果で、つまり現実の事象で号泣したことはもうほとんどない、子供の時分まで遡らなければない気がする

涙はストレスの解消にもつながるとか、それを意図的に導く涙活とか、そういう話もあるようだけれど、確かに涙が流れるとそこにカタルシスがあるという気はする

でも自分は涙を「自分の感情が制御できなくなったときに溢れ出るもの」だと思っているのだが、それだと最初から制御不能なものであって、それを意識的に利用するエシディシみたいなことはできないことになる、どうなんだろう

あ、あった、大人になってから現実の事象で泣いたこと

でもそれを思い出すのはやっぱり悲しくなるので、その輪郭をぼんやりと捉える程度にしておこう

忘れてはならないと思うからこそ忘れたくないこともあるし、忘れたくないからこそ忘れないようにしようとするものもある、前者は義務感で後者はエゴだ、でもどちらが良い悪いではないのだと思う

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