日記:読まない本への憧憬

本屋に住みたいな、と思うことがある。無限と錯覚するような叡智の広がりにずっと身を浸していたい。その場にいる限りは、あらゆる知識に手が届くような気がして、全知の存在にでもなったかのような錯覚を抱く。可能性がわずかでもあればそれをすっかり信じてしまえる人間なので、自分が読むかもしれない本がそこにあるだけで夢見心地になってしまうのだ。実際には並んでいる本の10000分の1も読めないのだろうけれど。

読まない本は意味がないのか。内容を知らないままでいるという点では意味がないのかもしれないけれど、しかしそこに本があるということを知っているだけで、ある程度頭の中でマッピングが行われる。タイトルと表紙くらいの情報しかなくても、そういうジャンルで本が存在するという事実が、なんとなく本の二次元グラフのように広がるイメージをもたらす。それがあると、ふと本が読みたいと思い立ったときに、希望に応じた本を取り出すことができるのかもしれない。実際は、タイトルから抱くイメージと内容がぴったりと合致していることはあまりなくて、事前に内容を想定しておくことはあまり意味がなかったりするのだけれど。その微妙なズレもまた楽しかったりする。


自分は小説が好きだけれど、そこまでたくさん読むわけではない。普段あまり小説を読まない人と比べればそりゃあ多い方だけれど、しかし世の読書家は途轍もない数の本を読んでいて、それと比べるととてもではないが「趣味は読書です」などとは言えない。

というか「趣味は読書」と切り出してから実際に意気投合することは極めて稀である。皆無であると言ってもいいかもしれない。例えば、そこから「普段はどんな本を読むんですか?」と尋ねるとする。しかしそこで返ってきた作家の本を読んだことのある確率がどれほどあるだろうか。まだ名前を知っていればいい方で、全くもって知らない作家の名前を挙げられたときの気まずさといったらない。よほど有名な作品を除いたら、読んだことがある本が被ることなんてなかなかないし、況してや好きな作家が重なることなどまずない。

だから偶にそういう相手に会うと滅多にない幸運に跳ねて喜びたくなるのだけれど、しかしそうなると今度は自分がそんなに作品のことを覚えていないことに気がつく。印象的なシーンや台詞をぼんやりと覚えているだけで、そういうポイントが相手と重なることはさらに機会が少ない。記憶が曖昧になってしまっているから、相手が熱く語ってくれる内容も同じ熱量で反応できることはなくて、お互い好きなものについて話しているはずなのにどこか物足りなさを覚えてしまう。好きなものを熱く語ることも決して簡単ではない。自分の内に生じた熱を他者と共有可能なレベルまで言語化しなければならなくて、それは思っているよりもずっと高度なスキルである。だからこそ感想を述べる行為は素晴らしいことだと思うし、せっかく日記という言語化を続けているのだからそういうスキルを身につけられたらいいなと考えている(考えているだけで実践が伴っていない)。

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