日記:ちょうどいい夢

クローゼットから上着を探し出すのが億劫だったので(春先にしまって以降どこにあるのかわからなかった)、温度が下がりつつあっても夏と同じ格好で耐えていたのだが、流石に今日は寒すぎたのでどうにかして薄手のコートを探してきて羽織ることにした。しかし寒いのは外を歩くとだけで、電車に乗ったり仕事をしたりしている間はむしろ暑いくらいなので、僅かな時間のためだけに上着を持ち出すのはやはり面倒だなと思う。じきにそうも言っていられなくなるだろうけれど。

夢と現実という対称があるとして、そして自分が生きているのは現実だとすると、夢も最終的には現実の重力に引かれざるをえない。現実を生きていくための夢だとして、しかしそれが眩しすぎれば現実を灼いてしまう。生きていくなら、適度に暖かい夢がいい。手に届かないと絶望することもなく、しかし生きていくことの希望を覗かせるような祝福を持った夢。ちょうどいい夢を見て生きていきたい。

それは年月を経るにつれて変化していく。例えば子供の頃は「高校での漫画みたいな青春」を思い描いていてもいいが、大人になればその憧憬は毒にもなる。だから柔軟に希望を変化させていくのがいい。しかしそれを意識してしまうと、「夢を曲げてしまった自分」を自覚することになり、暗い影を落とすことになる。夢や希望とは自らを救うものであり、それは神のような絶対性を持つに等しい。それを曲げてしまうことはすなわち夢の神性を侵すものにほかならず、やがてその希望は自壊してしまう。夢を持ち続けるのが難しいのは、そうした側面もあるのだろう。いずれ夢に負けない現実を作り上げるか、変化していく夢に気づかず溺れ続けるか選択する必要があるのかもしれない。

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