日記:選ばれなかったルート

行方不明になっていたイヤホンの片割れが発見されたので、電車の中で音楽を聴いたり動画を見たりできるようになった。別に、電車の中で必ずこれをする、と決めているわけでもないから、イヤホンがなければないで本を読んだりWebの記事を読んだり音を出さないでもすむゲームをプレイしたりするのだけれど、それはそれとして選択肢が狭められていること自体に不自由を覚えないでもない。

どれだけ選択肢があったところで、結局はその中から1つを選ぶわけで、選ばれなかった未来には意味があるのだろうか? ただひとつの最高の選択肢さえあれば、他には何も必要ないのではないか。しかし現実には何が最高なのかを判ずる術などなく、様々な要因で適切な手段も変わってくるものだから、選択肢は複数存在しているのが望ましい。それぞれのルートでどのようなメリットデメリットがあるのか把握している限りにおいては、だけれど。あまりに無秩序な選択肢ばかり広がっていても、かえって迷ってしまうだろうから。

人生をルート選択式のゲームのように考えるのなら、一度きりの生においては決して通りえなかったルートが存在している。もしかしたら、通らなかったルートのほうが正解で、いまの自分は間違った選択だったのかもしれない。実際には並行世界の自分を観測することなどできないから、正解不正解を判断することはできないけれど、それを擬製することができないわけではない。例えば、できるだけ近い環境の他人と自分とを比べてみる。同じ学校だった同級生と久々に会ってみたら、相手は仕事も趣味も充実していて、大変だけど楽しい毎日を送っているようだ。自分を顧みると、仕事もうまくいかないし、休日も疲れをとるために寝ていたらいつの間にか終わっている。そんな惰性の日々を繰り返している。もしかしたら、自分の選んだ道は不正解だったのかもしれない。

けれどやっぱり、それは出来の悪いシミュレーションでしかなくて、自分と他人の人生を比べることには、参考くらいの意味しかないのではないかと思う。隣の芝生は青く見えるものだし、言葉に表れないさまざまな変数が自分と他人とでは異なっているわけで、誰かの幸福をそのままなぞることが正解であるようには思えない。結局は自分がそれと認められるだけの幸福を手にしなければならないような気がしていて、その意味では並行世界の自分だって別の人生を生きている赤の他人だ。選んだルートの正解を見つけるしかないし、それが他の人と比べられることもないし、もっといえば正解不正解を採点されることもない。自分が正解だと思えるように生きていくしかない。

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