魔力

ホテルを出ると雨が降っていた。
じとじとした空気が体にまとわりつくようで、踏み出す一歩一歩がいつもより重く感じられた。
濡れないように地下道を通っていった。

雨の日の地下道は空も無いのに曇っている。
そして時間が止まっているようである。
この空間でただ私一人だけが、時間に支配されているようである。
進めども進めども出口が遠くなっていく。
頭がおかしくなりそうだ。


ようやくのこと地上に這い上がった私は、珈琲を買って新幹線の改札をくぐった。
電車が来るまで、まだ十五分程度あった。
私はホームの待合室で腰掛けた。
全てがぼんやりとしていて、水槽の中のようだった。


珈琲を啜ってぼうっとしていると、向かいにひとりの女が座った。
歳は二十歳そこそこといった具合いで、肌の色は白く、少々肉付きがよかった。
服はレースの襟のついた黒い服に、足元は底のある革靴に薄紫の靴下、下は短い黒いミニを履いていた。

その女には連れがあったが、何かこそこそと耳打ちをすると、連れは何処かへ去っていった。
すると一人になった女は、居住まいを正すと思わせて、突然寛いだように股をかっ開いて腰を据えた。


けしからん。

女の肉付きのよい足は最早その付け根まで見えそうな程で、そこにはパンティの予感さえ漂っていた。


率直に言うと、私はパンティには興味が無い。
パンティにはエロスを思わせる魅力があるとされているが、私にしてみればそれはどうにも布の範疇を越えない。
パンティが見えたところで、それは人の家のカーテンであったり、電車の座席を見た事となんら変わりはない。
それにその女の足にしてみても、私の好みのシェイプではなかった。
よって私にはその女のかっ開かれた股の中には、なんの魔力も感じてはいなかったのである。


珈琲を片手にぼうっとしていた私の視線は、元々は今女のミニの位置にあったが、女が股を開いたことにより、視線を何処かへ移す必要があった。
見たくも無いパンティを盗み見たなんて事を言われては、たまったものではない。
私は視線を少し上に上げ、更に少し横にずらした。
これにより、女の顔も女のミニの中も目に入らなくなった。
私はまた物思いにふけった。


意識をしないということは難しい。
なぜならそれは既に、意識をしないという意識をしているからである。
ミニを履いた女が股を開いて座った時点で、それは珈琲に落としたミルクのように、私の意識の中に流入し、それを認識せざるをえなくなった。
だが認識してしまったが最後、それはもうそこに存在しているがために、それを存在しないものとして取り扱う方に、かえって無理が生じる。

更に、「見てはいけないもの」というものには魔力がある。
見てはいけないからこそ見たくなる。
私の視線もまた例に違わず、ミニの中へと吸い寄せられた。

一度芽生えてしまった意識は、最早受け入れることによってしか昇華することはできない。
目を背けることは偽りである。
虚飾は心を穢してゆく。
私は私を穢したくはなかった。


では、私はミニの中を凝視すべきか。



否。



私は助平扱いされるのは真平ごめんである。
今私の心は破廉恥に関する感情はビタ一文、持ち合わせていない。
そんな私には目を瞑って全てを遮るという選択があり、席を立って別の場所へ移るという選択があった。
さて、どうしたものか。

だがその選択はどこか敗北の臭いがするではないか。
私はただ待合室で電車を待っているだけの善良な市民である。
咎めるべきは、公衆の面前で必要以上に短いミニを履いていて、尚且つ股を開けっ広げでいる女の方ではないか。
パンティを見た男よりも、パンティを見せた女に非があるのではないか。
私は負けたくないが、逃げたくもなかった。


心を決めた私は前を見た。
目の焦点はどこにも合わせずに、ただ女の方をじっと見た。
私はただ自分の目の前の空気をぼんやりと眺めているだけであり、女及び女のミニの中は一寸たりとも見ていない。
私は空気を眺めているのである。


これはある意味で博打であった。
私の方ではそのつもりであっても、女の方にはどの様に映っているのかが判然としなかった。
もし変体だと騒ぎ立てられてしまっては、明らかに私に分が悪い。

けしからん女よ、どうか騒ぎ立てないでくれ。
私は心の中で叫んだ。


そうしている間に、女の連れが飲み物を持って戻ってきた。
女は連れに何か耳打ちすると、席を立って二人は何処かへ行ってしまった。
女がチラリと此方を見たような気がした。


私は女のいなくなった席をめいいっぱい凝視した。

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