煙草


煙草を止めて四年以上が経った。
スタジオへ出かける前、いつものように換気扇の下で一服をしていると、突然に、煙草が自分には必要のないものに思えて、そのまま煙草の火を消すなり、灰皿やタスポといった煙草にまつわるものをゴミ箱へ放り込んだ。
それ以来、煙草を口にすることは一度もなく、また吸いたいという衝動も訪れることはなかった。

思い返すと、私は煙草を止める数日前に、歯医者を訪れていた。
その際に、歯医者は私に「君は煙草を吸っているね」
と言った。
私はコクリと頷いた。

歯医者は「止められないとは思うけれども、一応、煙草は止めた方がいいですよ。止められないとは思うけど」
と言った。
そして「僕も昔は吸っていたので、わかります」
と、付け加えた。

あの時はなんとも思わなかったが、今思えばその出来事は、煙草を辞めた事と無関係ではなかったと思う。
腕はよかったが、物言いが気に入らなかったのだ。
ええ歳こいて髪の長い喫煙者だからといって、自制心が無いわけではない。
ひょっとすると、私は己の意志の強さを証明したかったのかもしれなかった。


煙草を止めても、私は愛煙家であることには変わりはなかった。
煙草の吸える喫茶店には好んで足を運んだし、灰皿を煙草で一杯にする友人達が好きだった。
煙の立ち込める飲み屋で飲む酒は美味かった。
それでも自分も吸いたいと思うことはなかったし、煙草を勧めてくる奴らの手は、文字通り薙ぎ払った。
そんなことをしていたら、四年以上の月日が経っていた。


そしてふた月程前、私は再び煙草を手にした。
その機会は唐突に訪れた。
いつものように、ふらふらと街を歩いていると、ふと「煙草を吸おう」と思ったのである。
それは煙草を止めた時の感覚と、同じ類のものであった。

私はその足でコンビニに入り、店員にラッキーストライクの下に書かれた番号を告げた。
店員は「こちらで宜しいでしょうか」と言った。
それは間違いなく、私が欲したものであった。
店員は600円の代金を口にした。

四年前は確か500円だったので、少し高くなっていた。
最早ワンコインでは買えなくなっていた。
救いだったことは、昨今の市販のお菓子の様に煙草が短くなったり、細くなったり、本数が減ったりしていなかったことである。
ラッキーストライクは、私の記憶にあるものと、寸分の違いもなく同じものであった。
店を出て、私は早速一本取り出して口にした。
その口触り、喉を刺すタール、吐き出す時の煙の香り、そのどれもが紛れもないラッキーストライクであった。


このふた月の間、煙草を吸う私を見た者は皆目をまんまるにして私を眺めた。
中にはおろしたての達磨のように白い目で見る者もあった。
喫煙者達は皆、蘇った死者のように私を迎え入れた。

しかしながら、日頃「男に二言は無い」と吹聴している私の信用は、これをきっかけに地に失墜した。
最早、私の言葉に耳を傾ける者はいなくなった。
山奥に刻まれた足跡のように、静かに忘れられていった。
それでも私は満足していた。


言葉には責任が伴う。
それは間違いのないことである。
自分の吐いた言葉に責任を持てない者は愚者である。
しかし、過度に言葉に縛られてしまえば、それは最早「呪い」であり、呪縛である。
「私はこういう人間だ」、「私ってこういう性格だから」、そういった言葉は、ある種の自己暗示としては有効であるが、行き過ぎた暗示は呪いとなり、自己の持ち得る、その他の可能性を否定してしまうことになる。
言葉はあくまで指標であり、柔軟に捉えられるべきものである。

言葉には責任を持つべきだが、己が今、何を欲し、何を排除したいか、どうありたいか、どこへ進みたいか、そういった直感に素直になることの方が、言葉に絡め取られてしまうより、ずっと大切な事である。


先日、寺に坐禅を組みに行った時、そこの住職は行った。

「坊主は馬鹿になれ」

その言葉の意は、春の桜を見れば誰もが綺麗だと思う。
それを汚いと思う者など何処にもいない。
その様に、知識や経験を抜きにして、目の前に映るものをありのままに受け入れた時に、浮かび上がる最もプリミティブな感情を大切にしなさい、そういった意である。


だから頭を空にした時に浮かび上がった私の直感は、誰より私自身が信じてやらねばならない。
だから今、私の手には煙草がある。
そしていつかまた、私は煙草を止める。


己の直感を信じて行動することもまた、意志の強さなのである。

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