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あの時彼女が見せたかったもの


駅に着くと十三時の二分前であった。
私は携帯電話を取り出して、到着した旨を知らせた。
返事は直ぐに返ってきた。
「わたしも着いた」


前日の夜、我々は適当に落ち合うことだけ決めて床についたが、朝方になってWから「海に行こう」という提案があった。
正直なところ私は海は嫌いであった。
海はおろか、水辺はどれも好かない。
勿論、風呂を除いて。

どうして人々は、わざわざずぶ濡れになりにゆくのか、私には到底理解ができなかった。
それは野蛮であるようにも思われるし、ある種の幼児退行であるようにも思われた。
ひょっとすると、人が生まれ育った故郷を懐かしむように、人類、ひいては生命の故郷である海への羨望を、海水浴という形で満たしているのかもしれない、そう思った。
そうでなければ乾いた身体をずぶ濡れにする理由が見当たらなかった。

そうであるならば私が水辺を好まない事に説明がついた。
私は懐古主義者ではない。
海は私にとってはノスタルジアの象徴ではないのである。


そこまで考えたところで、私はWの誘いを断ろうと思ったが、すんでのところで思い止まった。
よく考えてみれば、近頃暖かくはなってきたものの、まだ街中をハナミズキが彩る季節であり、海水浴をするにはまだまだ早い。
つまりこれは海に入る誘いではなく、海を眺める誘いなのであった。

私は海に入ることは好かないが、海を眺めることは好きだった。
富士山は綺麗だが、それを登ってみようと思わないのと同じように、海には浸かりたくないが、側から眺める分にはこの上なく美しい景色なのである。
そうして我々は海の近くの駅で落ち合う事になった。


Wは大きな荷物を担いでやって来た。
「なにそれ」
私が尋ねるとWは、
「椅子。音楽流しながら、海辺で座ろや」
と言った。
私が犬なら、そのアイディアだけで嬉ションしているところだと思った。
その前に一寸腹ごしらえ。


海の近くに三十年前から時間が進んでいないような商業ビルがあって、そこで昼食をとることにした。
その中にいた人には、ベンチに座ったままピクリともしない人や、立ち止まって動かない人がいて、もしや本当にこの中は時間が止まっているのかもしれないと思った。

丁度よい塩梅の喫茶店があって中に入った。
海の前にカウンター席があって、我々はそこに並んでギャルには見向きもされないような定食を胃袋に流し込んだ。

時間の止まった人々の間をすりぬけて、スーパーでワインをジャケ買いして浜へと向かった。


浜には人影はほとんど無かった。
波打ち際の真ん前に椅子を広げて腰掛けた。
Wは持って来たスピーカーから音楽を流し始めた。
それはジミヘンの「Foxy Lady」だったので意外だった。

それから我々は海の前でだらだらと与太を並べて遊んだ。
波の音は直近で聴くと、やかましかった。
音楽は殆どかき消されるようで、自然の力についてあらためて思い知らされることとなった。


途中でボウイの「Starman」が流れた。
宇宙からやって来たロックスター。
もう千度聴いた曲だが、何故だかいつも間奏のミック・ロンソンの弾くギターソロで、目頭が熱くなる。
先日もボウイの映画のエンディングでその曲が流れて、何故だか涙が流れてしまったのである。
私は濡れる事が嫌いだというのに。

そして、大きな海と広い空の下でこの曲を聴いていたら、本当にスターマンが空の上にいるように思われて、また涙が溢れそうになった。
だから私は立ち上がって踊ったのだ。
そうして我々は海辺で奇妙な踊りを披露してみせたのである。
そうして私は気がついたのである。


あの時、小倉優子が我々に見せたかったものは、ジギースターダストだったのだ!



それから暫くして、スピーカーからストーンローゼズが流れて、あれ、この曲ってこんなにも晴れやかな曲だったかしら、なんてことになって。
それは、どこまでも突き抜けてゆきそうな程に、真っ直ぐな曲に聴こえたのである。
景色の魔法か、音楽の魔法か、無力な私はただただ所在不明の魔法にかけられて踊らされる一方なのであった。



スピーカーが波にさらわれて倒れたところで、我々は浜を去ることにした。
海がもう足元まで迫ってきたのである。

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