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だらしない

先日、二丁目の完全紹介制のオカマバーにお招きいただいた。鏡月と書かれた瓶の透明な液体とジャスミン茶を、馬みたいな顔のオカマが慣れた手つきで混ぜて出してくれた。飲み干すと、馬みたいな顔のオカマがまた継ぎ足し継ぎ足し作ってくれる。その手つきが素敵だなぁと思って、私は常軌を逸した量のアイスジャスミン茶を飲んだ。その日はお酒なんか程々でもじゅうぶん楽しい面子だったが、そういう時こそ飲んでしまうわけなんだ。馬のオカマは実際ゲイなのかトランスなのかよく分からなかったが、他人のセクシャリティってコミュニケーション上ではそんなに踏み込む必要ない。彼は誰も傷つけず過剰に誉めそやすことも無い、適度な距離感の相槌が神がかっていた。私達も接客業が長い者たち(全員風俗嬢)なので、オカマに無理に絡んだり詮索することなく、私達でひたすら楽しく飲んだ。

気がついたら家で寝ていて、右足がクリームパンみたいに腫れて痛い。財布を確認したら11万くらい入れっぱなしのまま減っていなくて、みんな本当に優しいなと思った。

足が腫れていると仕事に行けなくて精神的に困るので、整形外科に行ってきたのだが

「痛いところは、ぶつけましたか?ひねりましたか?」
「酔っ払ってて覚えてないんです。」
「ハハ、そうなんですね。」

このやり取りをドクターと看護師2名と、合計3回もした。患部を叩いたら痛いからぶつけたのかもしれないが、カルテには「酔っ払ってて覚えてない」とか書かれたのだろうか。恥ずかしい。私は、恥ずかしい大人になってしまった。酔って記憶をなくしたことより、人に少なからず迷惑をかけたことより、いつも酩酊していることで辛い現実から目を背け続けている毎日が恥ずかしい。

仕事が終わったら酒を飲みに行くだけの、しかも自ら進んで酒に飲まれる、つまらなくて中身がなくて恥ずかしい大人にだけはなりたくないと思っていた。てっぺんハゲのおじさんがヨレヨレのスーツを着てネクタイを頭に巻いて、という想像上の酔っぱらいの原始はいったいどこなのだろう。人は何になりたいかより、どうなりたくないか設定した方が歩きやすくなるみたいなことを誰かが言っていた。だからずっと、そう情けなくならないようにしてきた。べつに、すごく偉大な者になりたいとか思ってなかっ…ないわけじゃないけど、あまり自分自身に高望みはしないようにしていた。普通でよかった。普通にすらなれなかったけど、世間に馴染むタイプのモンスターでいられたらよかった。それがこの有様。

酒を飲んでふわふわころころする楽しみを、蜜の味を知ってしまった私はもう戻れないのだろう。孤独で満たされていた、一人のアーティストとしての私には。

会話ができないと食うに困るから身につけたスキルの一つでしかなかったのに、いつの間にか人と話すのが楽しくなった。すると、バイバイまたねの後にどうしようもなく寂しい。その激情を絵にしても歌にしても、結局はしょうがなかった。人恋しさは人でしか埋まらない。身体が未成熟だったころは、心に空いた穴も認識できないほど小さかったのだと思う。その穴は年々深く広がり、創造性をも侵した。何をしても虚しいだけだから絵も歌も作らなくなって、どうせいつも一人で食べるものだから、料理もしなくなった。

穴っていうのは隠喩でも直喩でもあるのかな(まんこ)

そこそこモテるようになったけど彼氏はできない。彼女もできない。好きな人はいつもいるが、その人との関係を限定しようとすると条件が噛み合わなくなっていつか別れが来ると思う。好きな人を手放さないために、刹那的にしか楽しまない。難しいっぽく書いたけど要するに、結婚しても長続きしないだろうから常に誰かの愛人としてふるまっているよということ。愛人なら何人でも作れるし。ああ誰か一人に永遠を約束してもらえたら、夜毎違う人を抱く必要ないのにな。

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