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鬱ワーカホリック躁

仕事が好きだ。仕事をしていると死にたいのを忘れられる。

私は死にたいのだ。仕事がない日はそれを思い出してしまう。

これは持病の症状で、自分が存在していること自体が苦痛でならない。病気はとうとう10年にわたり良くなったり悪くなったりを繰り返し、平均して死にたいと思っている時間が長い。私は死んだことは無いのだが、常に死にたい気持ちなのは死ぬほどつらい(ややこしい文章)。持病とか先天的な障害がなく普通に生きている人に、この感覚は一生わからないんだろう。絶対そのほうがいい。

仕事がある日は、仕事用の自分になる。本来の自分から仕事に不要なものを排し、必要な能力をライダーベルトみたいに装着する。死にたいな〜辛いな〜…そういうことを考えるために脳の容量を使用することは無駄だ。「社会的な生き物」として、死を目標にしていたらハブられるので、とにかくイキイキ!頑張るぞ〜!というふうに光るライダーベルトを装着し、社会の一員となれるような善良な行いに身をやつす。それによって自分はつつがなく生存する。「できる」でも「させられている」でもなく「する」。するしかないのだ、生存は。

思春期の頃までは、なんで外部アクセサリに頼らないと生きていけないんだ?ありのままの俺を受け入れてくれない社会の方が不完全じゃないのか?と不平不満をクソ垂れる社会不適合者で未熟者だった。今はこのライダーベルトをつけること、つけるのに金がかかることについて、なんの疑問もない。喉が渇いたら水を飲むレベルで人として必要なことなんだ。それが少し個性的になりすぎただけだ。

また、仕事が好きなのは死にたいのを忘れられるから、それだけではない。仕事をするとお金がもらえる。思考に隙間ができてしまってもお金を使うことで時間が過ぎて、結局は死にたいのを忘れられる。だから仕事が好きだ。私は死にたいのを忘れるために生きている。不慮の事故で亡くなった人の遺族とかが聞いたら、全力の助走をつけて殴られるのかな。私は不慮の事故で親が死んだ瞬間を見たことがあるが、6年経っても全然死にたいから、誰に殴られても平気だ。

そして一般的に、仕事をするには、仕事用のスキルが求められる。生まれた瞬間にはもっていないから、獲得していかなければならない。仕事用のスキルを獲得する努力もまた、死にたいのを忘れさせてくれる。

今の仕事に落ち着くまでに、勉強のためといろいろなアルバイトを経験してみたが、失敗を積み重ねすぎて自殺未遂まで自らを追い込んでしまった。しかし未遂に至るまでに、自分の知らないことが世の中にたくさんあるのを知り、無い能力を得るために勉強した。ググれば分からないことについて人に教えを乞う、試して失敗した経験から学ぶという行為は、一人暮らしを始める20歳までしたことがなく、楽しかった。特にコミュニケーション能力と注意欠陥症の改善はアリが糖蜜を運ぶのを見つめているようで、かわいい。今もまだ速度を上げて進行している。その新鮮さは青春に匹敵するものを感じるので、今がネオ青春だと思っている。

また試行回数を重ねていくほど「未経験の失敗」は減り、視点を変えれば解ける応用問題だったり、ケアレスミスの問題になっていく。進研ゼミでやったのと全く同じ問題が試験に出てきて正答できたような達成感を脳ミソの報酬にして、この体は生きている。

ワーカホリックという言葉は最近知った。もっともっと最近まで、その自覚は無かった。未発達の脳でけっこうがんばった自己分析によれば、私の希死念慮は双極性障害の問題が大きく、それゆえ純ワーカホリック成分は少ないかと思われる。なぜなら、思春期まで私は現実逃避のために趣味の時間をたっぷり持って、今も絵とか音楽とか好きなものがたくさんあるからだ。ワーカホリックといえば無趣味、空虚な心という認識だ。それからワーカホリックと発達障害の相性がよさそうなのは専門家に聞いてみたいところだ。

最後にライダーベルトを手放したのは、精神科病棟に任意入院したときだ。退院してからは、どんなにリラックスできる状態でも片手にライダーベルトが触れていて、いつでも装着できるようになっている。本当の自分は、どんなカタチをしているの?

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