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とはいえ、健全な生き甲斐じゃないの

前述の通り、私は仕事が好きだ。

ただ、風俗業は人を相手にするという点で介護職と似たようなものだと思っている。お互いが心を丸裸にして向き合う。風俗がなければ人が直接的に死ぬわけでもないので重みは全く違うが。

死にたいのを忘れるためにおじさんのちんぽをしゃぶっていると書くとあまりにネガティブすぎるし、お客様に失礼だ。風俗は、究極の接客業だ。お賃金がたかい以外にも私があえて風俗を選んだ理由は、ちゃんとある。

仕事自体は自分自身のことを考えさせないようにしてくれるから好きだが、おじさんのちんぽをしゃぶる行為は仕事中でなくても好きだ。それは「純粋に人を喜ばせる行為」だからだ。というか、しゃぶるのはおじさんのちんぽでなくてもいい。

人に喜んでもらうのが好きだ。助けたり、笑わせたり、たまにプレゼントをあげたり、話をただ聞いたり。また、こちらから頼ることで「頼られる喜び」を与えることも出来る。相手にとってなんらかのプラスになる行いをするといつか感謝されて、少なからず好意を寄せてもらえる。私が死にそうになると、私に感謝している人達は、私が死なないように助け舟をくれたり「死なないで欲しいこと」を表明してくる。つまり、私がいくら死にたくても、死ぬなって言われてるから死ねないという状況が作り出される。みんな、ありがとう。私を求めてくれて。

これは書いていて自分で最低と思うが、事実そう思うのだからこう書くしかないのだ。死にたいのを我慢するために人を利用している。表向きは博愛主義者だが、本当はひどく鬱屈した寂しいだけの人だった。

私と親しい人がいなくなったら私が悲しいから、私も同じ思いをさせないようにする。それが今、もっとも死から遠ざけてくれている要因なのかもしれない。

私の自由な意思は、脳に作用する向精神薬によって、とうに何処かへ逝ってしまったと思う。心から死にたいのを我慢しているのか、本当は生きたいけど死にそうになってしまったのか、全然分からない。でも、人に感謝されたら純粋に嬉しい。その気持ちは、好きな音楽や絵にうまれる感情と変わらない。

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