利己的な遺伝子 1章 人はなぜいるのか


書き始め

2年ほど前に購入したリチャード・ドーキンスの利己的な遺伝子を再読し始めた。生物物理学に関する研究の情報が新たに入ってくる環境になったため、特に進化に関する基礎を再び整理したくなったのがきっかけである。簡単に本書をまとめるのがこのnoteの目的になる。

本書の論点

表題にあるような質問や

・生命に意味はあるのか?
・私たちはなんのためにいるのか?
・人間とは何か?

などの質問に理屈の通った分別のある回答を用意したのがチャールズ・ダーウィンである。彼の進化論は今や地動説(*1)と同じくらい疑いのないものになっている。本書はこの進化論における「利己主義と利他主義」という論点の重要性の追求が目的である。進化は自然淘汰によって進み、自然淘汰は「最適者」の生存に加担する。では「最適者」は何を指すのか?最適個体のことか?最適品種のことか?

利己主義と利他主義

利己主義と利他主義はしばしば対義語として用いられる。

憎しみ⇆愛
戦い⇆協力
施し⇆盗み
貪欲さ⇆寛大さ

このように利己主義と利他主義という論点は人間の社会生活のあらゆる場面で現れる。すでに様々な人がこれらの論点について議論を重ねてきた。しかしながら、彼らは多くの議論で、進化において重要なのは、個体の利益ではなく種の利益であると進化の働き方を誤解している。つまり、進化論における自然淘汰の被り手を種であるとする群淘汰説をとっている点で間違っている。

群淘汰説

生存競争における競い手が種や集団であるとする。個体が種全体の利益のために必要とあれば犠牲になるような種であると、各個体が自分自身の利己的利益を第一に追求している別のライバル集団よりも、おそらくは絶滅の危険が少なくなる。結果として、世界は自己犠牲を払う個体からなる集団が多数となる。これが群淘汰説である。この説をもっともらしいとさせるいくつかの具体例がある。例えば親の子に対する行動である。多くの地上営巣性の鳥は捕食者からヒナを守るために、自分が傷ついて弱っているかのように見せる「擬傷」を呈する。自らがデコイとなり、巣からの距離を引き離したタイミングで空中へと逃げる。この行動では親鳥は自らをかなりの危険に晒している。

このようにもっともらしい群淘汰説への反論が存在する。利他主義の集団の中に一斉の犠牲を拒否する意見の違う利己的な少数派が存在したとするならば、その個体はおそらく他の利他主義の個体よりも生き残るチャンスも子を作るチャンスも多くなるはずである。そしてその子供たちはその利己的な性質を受け継ぐ傾向にあると考えられる。結果として利他的集団のなかに利己的集団が蔓延り、この集団の性質を明確に示すことができなくなる。もし、純粋な利他的な集団が存在しても、外部からの利己的な集団が移住してくることや、利己的個体との交配によって、利他的集団が汚されることを食い止められるだろうか。群淘汰説では統一的にこれらを説明することが難しい。

群淘汰説が非常に好評であった理由の一つとして考えられるのは、それが我々の大多数が持つであろう倫理的理想や政治的理想と融和することができるためである。理想上、我々は他人の幸福を第一にする人々を尊敬し賞賛する。しかしながら、この他人の解釈をどこまで広く持つかは人によって多少のズレが存在する。この解釈のズレも群淘汰説が統一的に説明できないものの一つである。近年では、仲間意識の対象を人間の種全体に置き換えようとする動きが見られる。この動きは進化における「種の利益」を支持しているように見える。このような自種のメンバーが他種のメンバーに比べて倫理上特別な配慮を受けていることは、感情を持たない人間の胎児が、豊かな感情を持つと知られているチンパンジーよりも諸々の権利・特権を得ていることからわかる。種差別の倫理が人種差別の倫理より少しでも確実な論理的立場に立てるかどうかについて進化生物学的に厳密な根拠はない。どのレベルでの利他主義が進化論的に望ましいのかという生物学における混乱によってどのレベルでの利他主義が倫理的に正しいのかという混乱が生まれている。

本書の立場

このように群淘汰説では統一的な説明ができない。進化を論ずる上でより良い方法はもっと低いレベルで発生する淘汰に注目することである。つまり、自然淘汰の基本単位が種でも、集団でも、個体でもなく遺伝子であると考えることである。これによって集団内での個体の利他的行動でさえも説明できる議論を試みる。

次章では生命そのものの起源から考える。

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