古いものはもう似合わない【コロサイの信徒への手紙3章】【やさしい聖書のお話】
それ、偶像礼拝
今日はコロサイの信徒への手紙の3章5節からです。
最初にパウロはこう命令しています。
聖書の日本語訳は、新共同訳聖書でも「聖書にふさわしい権威、品位を保持した文体」(『聖書 新共同訳』序文より)で翻訳しているので、意味がわかりにくくなることもあるのだけど。
「みだらな行い」[性的悪徳、sexual immorality]は、性的な意味で乱れたこと。「みだら」っていうのは「みだる」から来てるんだ。小さい子にわかるようにいうと、つまりエッチなことするなってことね。大きい子は、説明しなくてもわかるよね。
「不潔な行い」(汚れ、impurity)は、そのまま「よごれ」ということ。
「情欲」(感覚的欲望、passion)は、理性でコントロールできないような情熱ということ。思ったことを、考えないでやってしまいたいという気持ち。
「悪い欲望」(きよくない欲望、evil desire)は、欲しがってはいけないものをほしがる心。
「貪欲」(貪欲<むさぼり>、covetousness)は、欲しがりすぎること。
※ (~)はいのちのことば社『詳訳聖書』および英訳聖書『English Standard Version』より。
そして特に「貪欲」は「偶像礼拝」だと。
「かみ」という日本語
偶像礼拝というのは、神ではないものを神として礼拝することだから、「これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。」と聖書は注意している。
貪欲が偶像礼拝だというのは、「たとえ」じゃないよ。パウロがこの手紙を書いたギリシャ語ではどうなのかわからないけど、日本語では「かみ」というのは、「普通ではないもの」というとても意味の広い言葉なんだ。辞書では「神」を英語にすると「God」になるって説明してるけど、「God」にはない意味が「神」にはたくさんある。
本居宣長(もとおりのりなが)という江戸時代の学者は、日本語の「かみ」を次のように説明している。
どういう意味かというと、だいたいこんな感じ。
「八百万(やおよろず)の神々」なんていうけど、これは「たくさん」という意味だからね。実際には、たった800万ぽっちじゃなくて「すごいな」「普通とちがうな」というものはすべて神なんだ。だから「あの選手はほかとは違う」とか、「あのアイドルはほかとは違う」という人のことも「神」と呼ぶことができる。ただこの場合の「神」を「God」に訳すのは間違いだよ。
で、だからたとえば「他の何よりもお金こそすばらしい」という人というのは、お金が神様になってる人なんだ。
みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲。これらに心を奪われてしまうと、自分で自分をコントロールできない、心が支配されてしまう、そこが偶像礼拝なんだ。
何かを「欲しがる」という気持ちそのものは、悪いことではないよ。
たとえば「ニンテンドースイッチがほしい」という気持ちは全然悪くない。それで親と「勉強をがんばったら」とか「お手伝いをがんばったら」買ってもらう約束をして、そしてスイッチがほしくてがんばったから買ってもらえた。なあんにも悪いことはないよね。
だけど、友達のニンテンドースイッチをとっちゃったり、お店に並んでるニンテンドースイッチを盗んだりってことになると、これはもう「ほしい」をコントロールできていない。「ほしい」に支配されちゃってる。「ほしい」が神になってしまっている。それが「貪欲という偶像礼拝」なんだ。
「みだらな行い」とか「情欲」もね。心から好きな恋人同士がキスするのもダメなんて言ってない。お父さんとお母さんがラブラブなのはいいことでしょ。
でも、お父さんがお母さんをほったらかして違う女の人とラブラブしだしたら、それはもう自分の心を支配できていない。心が「みだらな行い」や「情欲」に支配されてしまっている。それは偶像礼拝。
さっきお金の話をしたけど、お金は悪くないし、お金をほしいと思うのも悪い心ではないんだよ。お金で買えないものはいっぱいあるけど、お金がないと買えないものもいっぱいあるからね。イエス様のたとえに登場する「よきサマリア人」は、お金持ちだったから、強盗に襲われた人を助けることができたんだ。
でも「お金のためなら人をだましてもいい」とか、「家族を大切にすることよりもお金を稼ぐ方が大事だ」なんてなると、それはお金に支配されてしまっているから、偶像礼拝。
偶像ではない神を求める
5節の最初に「だから」って言ってるよね。じゃあその「だから」の前に何がかいてあるかというと、「あなたたちはキリストのものなんだから、この世のものではなく神の国のものを求めなさい」ってことが書いてあるんだ。
キリストは死んで復活した。
あなたたちがキリストを信じたということは、キリストと一緒に死んで、キリストと一緒に復活して、キリストと一緒に生きているってことなんだ。
だったら、この世のものを偶像として礼拝するなんてことは、ないだろ?
お金が大事と言ったって、100億円もうけても死んだら意味ない。キリストともに神の国に入るということは、たった100億円もってることより素晴らしいんだ。
この世でめちゃくちゃモテたって、その楽しさや幸せは一瞬だけだ。でも神であるキリストの愛は永遠だ。そして神様の前で誓った二人の愛も永遠だ。だから「みだらな行い」「情欲」なんてつまらないものなんだ。
古いのはもう似合ってない
だから、
「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、貪欲」
なんかは捨てろと。
そのかわりに、
憐れみの心(やわらかい心のあわれみ<いつくしみ>、compassionate hearts)
慈愛(親切な気持ち、kindness)
謙遜(けんそんな自己評価、humility)
柔和(温和なふるまい、meekness)
寛容(<うむことのないしんぼう強い、どんなことが起こっても、穏やかな心で、それに耐える心を持つ>忍耐、patience)
を身に着けなさいと言ってる。
「古い悪いもの」を脱ぎ捨てて、「新しいよいもの」を着なさいって教えてるんだ。
イエス様を信じた君は、もう「この世人」じゃなくて「天国人」になってるからなんだよ。
すでに君は新しい人になってるんだ。なのに着てる物だけ、古いまんまじゃないか。
「新しくなった君」に似合う、「新しいもの」を着ろよ。
前に着ていた「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」なんか脱ぎ捨てろよ。
もう似合ってないんだ、ぜんぜん似合ってないんだよ。
古いほうもよかったよなって思わなくもないけど
イエス様を信じた君は、もう新しい。似合わなくなった古いものはもう捨てて、新しい君に似合う新しいものを着な、ってだけなんだ。
それでももし、まだ古い悪いもの、みだらな心や貪欲や怒りのほうに心がいっちゃいそうなときは、どうする?
イエス様に助けてっていえばいい。
君ががんばる前にイエス様が十字架でがんばったんだから、君はもうがんばらなくていい。
「古い悪いものも、ちょっとくらいいいじゃないか」という誘惑に自分の力で勝つのは難しい。でもイエス様は神様だから。すべての誘惑にすでに勝利したイエス様がぼくたちの味方だから。
そういう時って、自分でもわかるよね。
「あ、今わたしウソつこうとしてる」
「今、わたしはズルしようとしてる」
「今、欲しがってはいけないものを欲しがってる」って。
でも大丈夫。イエス様はもうすべての誘惑と戦って勝ったから。
「まだ"貪欲"とか"怒り"とかあるよ、古いもの着たがってるよ」と思うときでも、イエス様が解決してくれる。イエス様から離れないようにってことだけ気を付ければいいんだ。
動画版はこちら
この内容は、2022年6月12日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、このページと動画の内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。
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