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イエスさまの弟子が麦ドロボウ!【ルカ6:1-11】【やさしい聖書のお話】

2023年1月22日の聖書のお話です。
教会学校動画では、棒読みちゃんとの掛け合いをためしています。

事件は麦畑で起きた

イエス様は弟子たちと共に町や村をめぐって、神の国を伝え、悪霊を追い出しました。ガリラヤ湖を舟で渡るとき以外はすべて歩きです。
そしてある安息日のこと、イエス様ご一行が麦畑を通っていくと、弟子たちは歩きながら麦畑から麦の穂を抜いて、手の中でもんでカラをとって食べていました。

普通に考えたら、他人の畑の作物を勝手に食べるなんて、ドロボウです。
目撃したファリサイ派たちは、弟子がしたことは先生が責任をとれとばかりに、イエス様にこう言いました。

「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたがたはするのか」

ルカによる福音書6:2(新共同訳)

そっちかーい!と思うよね。
他人の畑の麦を勝手に食べたことじゃなくて?
安息日だから問題になるの?

罪とは

日本では盗みは犯罪ですが、なぜ盗みが犯罪になるかわかりますか?

まず、「したこと」が「犯罪」となるためには、「こういうことをしたら犯罪」ということが法律で決められていないといけません。罪刑法定主義(ざいけいほうていしゅぎ)というのだけど、「何がで、それに対してどんなを与えるかは、律でめておく」ということです。日本も罪刑法定主義の国です。
罪刑法定主義でないとどうなるのか?たとえば、あとから作られた法律で過去のおこないを罪にできるとしたらどうでしょう。「ここの道は自転車禁止になりました。なので今までここを自転車で走ったことがある人は罰金」なんてことができたら困るよね。こういうのを事後法(じごほう)というのだけど、これは絶対にやってはいけないことなんです。東京裁判も第二次世界大戦が終わってから「平和に対する罪」というのを作ってそれで戦争中の日本の政治家などを死刑にしたのだけど、あれも事後法です。

で、日本で泥棒が犯罪になるのは、法律で次のように決めてあるからです。

他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。

刑法第二百三十五条

法律用語がわかりにくいけど、要するに「他人の財産やモノをこっそり盗んだ者は、窃盗(せっとう)の罪とする。刑は、最大10年の刑務所または最大50万円の罰金」ということです。

でもそうすると。
十戒で「盗んではならない」って定められているのだから、ユダヤでも盗みは罪になるはずですよね。

盗みが罪にならない場合がある

実は聖書にはこういう定めもあるんです。

隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、カゴに入れてはならない。
隣人の麦畑に入るときは、手で穂をつんでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。

申命記23:25-26(新共同訳)

他人のぶどう畑で勝手に食べてもいいけれど、持って帰ってはいけない。
他人の麦畑で手で実をとってもいいけれど、鎌で刈り取ってはいけない。
だからイエス様の弟子たちが手で麦をとって食べても「盗み」ではないんだ。盗みでないなら、十戒の「盗んではならない」の違反にもならない。
だからファリサイ派たちは、「なぜ他人の畑の麦を勝手に食べるのか」とは言わなかったんだ。

ただ、その日が安息日だったことをファリサイ派は問題にした。

安息日に違反だ!

十戒で、安息日は聖なる日だから働いてはいけないと決められている。
この決まりは、十戒よりも古いんだ。イスラエルがモーセに導かれてエジプトから脱出したとき、主はまず安息日を守ることを教え、そのあとで十戒を与えている。
だからユダヤ人は、主のおきてを守ることの中でも、安息日の決まりは特に大事にしていた。福音書の中でファリサイ派や律法学者とイエス様がもっとも衝突したのは安息日の守り方についてなんだ。

ところで、弟子たちがした「手で麦の穂をつむ」のは「収穫という労働」だ。穂を手でもんでカラを取り除くのは「脱穀(だっこく)という労働」だ。どちらも安息日にしてはいけないことだ。

「そんなことを言ったら、普通の料理もできない」と思うかもしれない。麦のカラをとるのが違反なら、ニンジンの皮をむくのは?とか。

実際、安息日には料理も制限される。
たとえば安息日に火をつけることは禁止されているから、料理で火をつけることはできない。現代のイスラエルでも聖書の決まりを大切にする人たちは、ガスコンロで火をつけたりしないし、電化製品もスイッチを入れる時に火花が出るかもしれないということで安息日には使いません(最近の電化製品ではそういうことはほとんどありませんが、少し前まではありえる話でした)
(ユダヤ人でも、日常生活の中で出来る範囲で聖書を大切にする「世俗派」、厳密に聖書に従う「超正統派」、その中間の「伝統派」「正統派」など、人によって考え方はいろいろです)

じゃあ安息日の料理や生活はどうしているいのかというと、安息日が始まる前に電化製品にタイマーをセットすればいいんです。タイマーが作動してスイッチが入っても、それは人が火をつけたのではないから、人が安息日の決まりを破ったことにはならない。
冗談みたいだけど、でも「安息日はきゅうくつだ!」て神様に不平をいうより、安息日をおもしろがる方が、じゃなかった、楽しむ方がいいよね。
聖書でも、安息日にペトロのお姑さんがイエス様をもてなしたことが書かれています。安息日には安息日のやり方というものがあって、イエス先生を十分におもてなしできたのでしょう(マルコによる福音書1:21-31)。

ただ、イエス様の弟子たちがやったことは、いいわけのしようがない違反です。イエス様はどう対応したのでしょうか。

安息日について「そもそもの話」をしようじゃないか

最初に言ってしまうと、イエス様は「律法とは何なのかを考えなさい」ということを言いたかったのだと思う。

イエス様はまず、昔のダビデのできごとを思い出すようにと言った。
聖書には、神様におそなえするためのパンについての決まりがあって、これはおそなえしたあとは祭司しか食べちゃいけないものだった(レビ記24:9)。ところがダビデがサウル王から逃げていた時、ある祭司がこの特別のパンをダビデに差し出して、ダビデは家来たちと一緒に食べことがあったんだ(サムエル記上21:7)。

でもこのできごとについて、ユダヤでは「命をたもつことは律法を守ることより優先されるから、ダビデが特別なパンを食べたことは違反とは言えない」と解釈しているんだ。律法を守って飢え死にしたりしたら、主は喜ばないだろうということなのだろう。
聖書の律法というのは、神様がイスラエルを愛してプレゼントしたものなんだ。主がイスラエルの神になり、イスラエルが神の民になるための約束であって、人間に苦労させるためじゃないんだ。

そして神様は、ダビデだけを特別扱いしたわけじゃなくて、すべての人を愛している。そのためにひとりごイエス様の命を犠牲にしたほど愛してくれている。
そんな主が「わたしが命じた律法に違反するくらいなら、飢え死にしろ」なんていうわけないでしょ、ということをファリサイ派に考えてほしくて、イエス様はダビデの話をしたんじゃないだろうか。

聖書の規則をぼくたちはどう読むか

ただ、「聖書の言葉を守るか守らないかは、自分で好きに決めていい」ということではないよ。神様が喜ぶか、がっかりさせたり悲しませたりするか、ということは考えないといけない。

コリントの信徒への手紙一10:23
「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。

同10:31
あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

いずれも新共同訳聖書より

旧約聖書の律法には613もの規則があると言われるけど、実はぼくたち異邦人は、偶像礼拝や異教の風習だけ気を付ければいいんだ(使徒15:10,28-29)。
その代わりに新約聖書で「イエス様のおきて」が定められている。たとえば「互いに愛し合いなさい」とかね。神を愛し、隣人を愛しなさいとも教えている。
ファリサイ派がこだわった「安息日を守りなさい」という超重要な律法も守らなくていい代わりに、神を愛し、人を愛することを命じられているんだ。

これは、そんなに難しいことではないと思う。
家族が大切なら、家族を悲しませたりがっかりされたりしたくないよね。それより喜ばせたいよね。それと同じで、神様を愛しているなら、神様を悲しませないように、がっかりさせないようにできると思うんだ。
だから、神様のことを思うっていうことだけ、いつも忘れないでいよう。

 動画版のご案内

このnoteの内容は、12023年1月22日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。


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