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あなたたちにできると信じている【ローマ15:14-15】【やさしい聖書の話】

2023年6月25日(日)の教会学校でのお話をもとに。


パウロの確信

ローマの信徒への手紙、ローマ帝国の首都ローマ市に住んでいるクリスチャンたちにパウロが書いた手紙を読んできた、その最終回です。
パウロは、ローマのクリスチャンたちにこう書いています。

兄弟たち
あなたがた自身は善意に満ち
あらゆる知識で満たされ
互いに戒め合うことができると、
このわたしは確信しています。

改行は引用者による。ローマの信徒への手紙15:14(新共同訳)

兄弟たち

兄弟という熟語は、「けいてい」と読むとこれは兄と弟のことですが、「きょうだい」と読むと、兄と弟のことでもあるけれど、姉と妹も含めて「同じ親から生まれた人たち」のことです。
イエス様を信じる私たちは男でも女でも、あるいはどちらでもなくても、同じ唯一の神さまにつくられたのだから「兄弟」なんですね。

善意に満ち

善意というのは、人にやさしく親切にする心のこと。
今ふうにいえば、寄り添う心のことです。

イエス様は、食べ物がない人、のどが渇いてる人、旅をしている人、服を持っていない人、病気の人、牢屋にいる人を例に挙げて、「最も小さい誰か一人に親切にしたことは、イエス様に親切にすること、誰か一人に親切にしないことはイエス様に親切にしないことだと教えました(マタイ25:31~)
そういう人たちに、私たちは寄り添うということ。

おとといは「沖縄慰霊の日」でした。戦争でひどいめにあった人たちや、その体験を語り継いでいる人たちにも、私たちはイエス様にするようにしないといけない。

知識で満たされ

「知識」というのは、特に聖書では「神様について知っている」ということです。
人間が神様のすべてを知ることは出来ないのだけど、でも神様はいろいろなやり方で、神様自身のことをぼくたちに知らせてくれています。ぼくたちはいろいろな方法で神様を知ることができます。

たとえば聖書をとおして。
神様からのメッセージである聖書を読むこと。
祈りながら聖書に取り組んだ人たち、たとえば牧師による聖書の説き明かしを聞くこと。

神様に祈ることをとおして、神様を知ることもあります。
祈りは神さまとのお話です。一方的に願い事を神様に投げつけることではないんだ。神様はいろいろな方法で、ぼくたちの祈りに応えてくれる。

そうやって神様がしてくれたことによって神様をさらに知ることができる。だから教会では「あかし」を大切にします。あかしというのは、その人に神様がどんな素晴らしいことをしてくださったかを共有することだからです。

神様が創造した自然や宇宙を見ることも、神様についての知識を満たすことになる。神様は目には見えないけれど、神様がどんな方であるかは神様がつくったものを見ればわかるから、それらをとおして神様を知ることができるって書いてあります(ローマ1:20

預言する力を神様から与えられている人をとおして、神様から自分へのメッセージを受け取れることもあります。
ぼくは預言者ではないけれど、預言者をとおして神様からの励ましの言葉を受け取ったことは何度かあります。
ただ預言についてはね、イエス様も「ニセ預言者を警戒しろ、ちゃんと見分けろ」と言ってるくらい、注意が必要なんだけど(マタイ7:15-20)

いましめあう

 戒め合うというのは、互いに教えあいこと、そして互いに相手の間違いを注意しあうことです。

イエス様の時代、ファリサイ派や律法学者といった人たちは、聖書の戒律を守れない人たちを一方的に裁いていたようです。でもそうじゃない。「互いに」なんだ。

「あの人がああいうことをするのは間違ってると思うのだけど、でも自分だってこんなふうだから注意できない」と思うこともがあるかもしれない。
でもそれだと「互いに見逃し合う」になってしまうよね。

誰かに注意するのって、難しい。
ふだん仲良くしてる相手だと注意しにくいかもしれない。
ふだんそれほど仲良くしてない相手だと「なんであなたに言われなきゃならないの!」みたいなことになったらやだな。

それじゃダメ。
ぼくたちは、互いに完ぺきじゃないことを知ってるのだから、注意しあわなきゃいけない。
でも、裁き合うことになっちゃいけない。愛がないと注意しあうことができないんだと思う。ということは注意しあえないのは愛がないということにもなるのかな。

でもパウロは、「あなたたちはそれができると、私は確信しています」って言ってるんだ。
彼はこう言いたいのだと思う。
「同じ神様に生かされているみなさん。
あなたたちはやさしさと親切でいっぱいで、もっとも小さい者の一人にも寄り添うことを知っている。
あなたたちは神様を知る知識で満たされている。
あなたたちは、言いにくいことも愛をもって互いに注意してあげることができる。
あなたちにはそれができると私は信じている。」

思い出して!

パウロはそう言いながら、実はこの手紙の中でけっこう厳しいことも書いていて、それは「記憶を新たにしてほしい、思い出してほしい」と思ってのことだと書いている(15:15)
イエス様もヨハネの黙示録で、エフェソ教会にむかって「あなたは初めの頃の愛から離れてしまった。だから思い出して戻っておいで」ということを呼びかけている(黙2:4-5)

感動が時間と共に薄れるのは、しかたがない。
「私は救われた!罪を赦された!新しい命を与えられた!」と感動して。
バプテスマを受けてさらに感動して。
でもそれから何年、何十年経つと、初めの頃ほどじゃなくなってたりする。

でも、そういうものだよなとも思う。
たとえば保育園にいる小っちゃい子は、大好きなパパが迎えに来たら嬉しくて「パパー!」って飛びついていくかもしれない。
でもその子が大人になって、パパはおじいちゃんになったとき、もう「パパー」って抱き着いたりはしない。
そのときパパ(おじいちゃん)は「お前が小さい時は、パパーって飛びついてきたのにな」って言うかもしれない。

でもイエス様は、父なる神さまのことを「アバ」って呼んだ。
普通はお父さんのことは「アブ」っていうんだ。「アブ」が「父」だとしたら、「アバ」は「パパ」くらいの感じらしい。そしてイエス様は父を「アブ」ではなく「アバ」って呼んでた。

ぼくたちは、神様を信じた最初の頃の記憶を思い出さなきゃいけない。感動は薄れるものなのとしったら、思い出そうと思って意識して思い出し続けなきゃいけない。
イエス様を信じたときのあの気持ち、主が愛してくれたから主を愛そうって思ったあの気持ちを思い出して、それを大事にしていこう。

動画版のご案内

このnoteの内容は、2023年6月25日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。


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