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神にならう者になる【エフェソの信徒への手紙5:1-2】【やさしい聖書のお話】

「ならう」は「なれる」

今日の個所で聖書はこう言っています。

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。

エフェソの信徒への手紙5:1(新共同訳)

 「ならう」という言葉は「なれる」と関係がある言葉です。自転車の練習とか、ピアノ教室や水泳教室とか、「なれる」ことからはじめるよね。
たとえば泳ぎをならうときって、最初は水に顔をつけて、水になれることから始めるでしょ。それから、水の中で息を止めたり水の中で目を開けたりすることになれていく。

泳ぎは水に「なれる」ことから

それから、先生に教わりながら、先生がやることをまねして、バタ足とか、息継ぎとか、手の動かし方をならっていくでしょ。

水になれたら、泳ぎを「ならう」

それで「ならう」には、誰かを見本とかお手本にして、教わって身につける、やり方をまねする、したがう、という意味がある。

神にならう

で、今日の所は「神にならう者」になりなさいって。
神様をお手本として、神様のやりかたをまねる、神様のやり方に従う、ってこと。

といっても、神様が六日間で世界を創造したのにならって、新世界の神となる、とかそういうことではないです。

神にならう(神を手本にして、やり方を学ぶ)とは?

「神にならう者になりなさい」の前には、
「神に愛されている子供ですから」って書いてある。
で、ぼくたちには「神に愛されている子供」のお手本もいるよね。そう、イエス様。
イエス様が神の子キリストで、父なる神に愛されているように、あなたたちも神に愛されている神の子供たちなのだから、神の子イエス様にキリストにならって、お手本にしなさい、ということなのだと思う。

愛によって歩む

キリストにならうとは具体的にどうすることかというと、こう書いてある。

キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。

エフェソの信徒への手紙5:2(新共同訳)

たとえば車は「ガソリンや電気によって走る」よね。
同じようにぼくたちは「愛によって歩む」ようにしなさい、ということ。

ぼくたち人間は、「憎しみや怒りによって歩む」ということもできる。憎しみとか怒りって、ものすごくエネルギーがあるし、パワーになる。ただ、憎しみや怒りというのは、持続可能なエネルギーじゃないんだ。このエネルギーに頼りすぎると、自分の心が壊れてしまうこともあるし、自分も誰かの憎しみや怒りのエネルギーにやられてしまうこともある。このエネルギーで歩み続けることはできないんだ。
だから聖書もこう教えている。

あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。

ローマの信徒への手紙12:14(新共同訳)

ところで車は、エネルギーさえあれば好き勝手に走っていいというわけじゃないよね。愛によって歩むというのは、車が「法律というルールによって走る」ように、「愛というルールによって行動する」ということでもあると思う。

キリストにならう

キリストにならう、というのが具体的にどういうことかというと、最初にいったよに「ならう」というのは、お手本にしてやり方を学ぶ、身につける、従うということ。
キリストのどういうところをお手本にするのかというと、『キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように』やるということ。

いけにえというのは、動物の命を神様にささげることだよね。そして、ぼくたちの罪のせいで、イエス様の命がいけにえとして、十字架で神様にささげられた。
それを見本にするということは、ぼくたちも誰かのために命をささげるということになる。

命をささげる?
死ぬの?
なんか急にすごい話になってきたよね。でも実際にイエス様はこう教えている。

人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

ヨハネによる福音書15:13(新改訳2017)

これは「たとえ」じゃなくて、イエス様は実際にぼくらのために命を捨てた。イエス様にならうなら、イエス様のように、ぼくたちも友のために命を捨てることだよ、と聖書は教えてる。

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

ヨハネの手紙一3:16(新共同訳)

これは「命なんてどうでもいい」ということじゃないよ。君の命は大事。
ただ、神様へのささげものというのも、「どうでもいいもの」じゃなくて「大切なもの」じゃなきゃいけないんだ。
旧約聖書の時代に、動物の命をいけにえとしてささげていたのは、動物の命が大事だからなんだ。価値がないものなら、神様にささげる価値もない。「神様が創造した大切な動物の命」をいけにえとしてささげることを神様がゆるしてくれているほど、神様はぼくたちの命を大事にして、そして究極、神様自身であるイエス様のいのちをいけにえとしてささげることがゆるされた。

君の命はかけがえのない価値がある。だからこそ、友のために兄弟のために、そしてイエス様のために命を捨てるなら、それは価値があることなんだ。

ある人たちは、「命が宝だ」という。
でもイエス様を信じるぼくたちは「命よりもすばらしい宝」を知っているし、もう持っている。

できれば、「誰かのために自分の命を差し出すのかどうか」なんてことにはならないほうがいいよね。
特に、命を差し出すのが当たり前みたいな空気にしちゃいけない。命を差し出すことが強制されてはいけない。
ただ、もしも、友のために自分から進んで命を差し出すことを選ぶかどうかということがあるなら、その時には、イエス様がぼくたちを愛して命を差し出したことをお手本にできるように、聖書をよく読んでおこう。

動画版はこちら

この内容は、2022年7月31日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。

動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、このページと動画の内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。

動画版は↓のリンクからごらんいただくことができます。


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