王様に祝福を!神様に賛美を!【詩編72】【やさしい聖書のお話】
〔この内容は、布忠が教会学校リーダーとして作成している動画の原稿を再構成したものです。教会に来ている子供たちを対象にしているため、キリスト教の信仰に不案内な方には説明不足なところが多々あるかと思います。動画は以下のリンクからご覧いただけます。〕
ソロモンという王様
先週まではダビデが作詞作曲した詩編を見てきましたが、今日(2021年10月24日)の詩編72編は「ソロモンの詩編」という題がついています。
ソロモンというと、最近のアニメやゲームでは大魔法使いとか大賢者とかの名前でよく使われてるみたいですね。
ソロモンが悪魔を従わせる指輪を大天使ミカエルから授けられたとか、その指輪によって72体の悪魔を使役した、などの伝説がもとになってるようですが、もちろん聖書にはそうしたことは書いてないです。
聖書ではソロモン王は、ダビデ王の十何人目かの子供で、でもその中でもっとも神様から喜ばれていました。
そしてソロモン王の時代に、古代イスラエル王国の領土は最大になりました。国がとても栄えていたことは、イエス様も「ソロモンはとても華やかに着飾っていたけれど、それでも神様が作った野の花のほうがすばらしい」というふうにたとえ話で使ってるくらいです。
そして何より、ソロモンは正しく国を治める王様でした。当時の王様は、最高の裁判官でもあったのだけど、聖書にはソロモンがどんなすばらしい裁判をしたかのエピソードがあって、それは日本の時代劇やアニメに使われるくらい有名です。国中から「こんな賢い王様がいては、悪いことはできない」と思われるようになったと書いてありますから、犯罪も減ったんじゃないでしょうか。
そして詩編72編は、王様をたたえながら、「この素晴らしい王様が、よい王様であり続けますように」と祈る内容でもあるんです。
ただソロモンは、年を取ってから外国の神様を礼拝するようになったことと、何より次の王様になるわが子の教育を失敗したことは残念なことでした。
ソロモンの息子が次の王様になるとき、「俺は父ソロモンよりもきびしくやるから覚悟しとけ」みたいなことを言って大炎上したんです。
どれくらいの炎上かという、イスラエルはヤコブの子孫の12部族が連合していたのだけど、そのうち10部族がソロモンの息子に「あんたとはやっとられんわ」といって、国を出て行ってしまったほどです。
こうしてイスラエル王国は、北の10部族の国「イスラエル王国」と南の2部族の国「ユダ王国」に分裂してしまいました。
この歴史がこの詩にちょっと関係あるんじゃないかな、ということはあとでまた。
ソロモンの詩編
72編は、「ソロモンの詩編」という題だから、ソロモン王がつくった詩だと考えられます。ソロモン自身が作ったのでないとしても、ソロモンが作った詩として伝えられてきたということです。
でも内容からは、王が自分で歌ったというよりは、王様のためにささげられた歌のようです。王様が自分のために祈ったというよりは、王様のために祈られた祈りのような。
それで、この詩編は「新しい王様が即位したときに歌われたのだろう」ともいわれています。
だとすると、さっき説明したように、ソロモンのあとは国が二つに分かれてしまって、ソロモンの後の(ダビデ一族の)王様というのは南のユダ王国だけの王様なのです。
だから、南のユダ王国で新しい王様が即位したときに、もしかしたら北の十部族の国にむかって「お前たちの王様とは違って、私たちの王様は神様とともにあるすばらしい王様だ」とマウントをとりにいく気持ちが、ちょっとくらいはあったんじゃないかな、なんて思ってしまうのだけど。
権力者のための祈り
先週までの詩に比べると72編はちょっと長い目だけど、この中でぼくは15節がとても印象深いです。王様のために人々が常に祈り、絶え間なく王様を祝福しますように、という祈りです。
詩から何を思うかは自由なので、このように考えるのが「正しい」ということではなくて、ぼくがこういうことを考えたというだけの話なのだけど。
日本の総理大臣は王様とは違うけれど、政治にもっとも責任がある人ということでは、この詩の王様と日本の総理大臣をくらべてよいと思う。
じゃあ、総理大臣のために祈っているクリスチャン、総理大臣を絶え間なく祝福しているクリスチャンは、どれくらいいるだろう。
最近、日本の総理大臣が菅さんから岸田さんに変わったけど、変わることが決まっただけでまだ岸田政権がスタートしてもいないうちから「#キシダ政治を許さない」なんて言ってる人たちもいた。それはクリスチャンが言ってるのかはわからないけれど、クリスチャンや牧師の中にも、誰が総理大臣になってもいつも「総理大臣が早くやめますように」と祈り続ける人や、祝福するどころか「あんなやつはだめだ」としか言わない人が少なくないです。
気持ちはわかるし、意見は自由。
ただ、イエス様を信じるぼくたちは「自分の意見よりも、聖書がぼくたちになんていってるかを大事にしなきゃいけない」っていうことを忘れないでください。ぼくたちの意見のために聖書を使うんじゃなくて、聖書にぼくたちの気持ちをあわせていくんです。
イエス様がゲツセマネで「できれば十字架にかかりたくないけれど、父のお心のままに」と祈ったように。
18-19節は付け足し?
この詩の構成としては、
17節までが王様のための祈り
18節と19節は神様の賛美
20節は「ここまで、ダビデの祈りでした」という一文
という、ちょっと「ん?」ていう感じの終わり方になっています。
詩編というのは150編の詩が入ってるのだけど、それが5巻にわかれていて、72編は第2巻の最後の歌なんです。
それで、「18,19節の賛美は、最初からこのソロモンの詩に入っていたものではないのだろう。この詩を第2巻に入れたときに、『第2巻の結びのことば』として賛美の言葉を足したのだろう」と考えれるそうです。
そして、72編の最後にというよりも、第2巻の最後に「ダビデ(とそのあととりのソロモン)の祈りの終わり」と書いた。つまり「ここまでダビデ一族編でした」と。
でも、これもぼくの感じ方なのだけど、そういう考えをしなくてもいいのではと。
72編はもともと神を賛美する言葉の言葉で終わっていて、だからこそ詩編をまとめた人たちは「第2巻の最後は、賛美の言葉で終わるソロモンの詩編がふさわしいだろう」というふうに考えたんじゃないか、というふうにも考えられるよね、と。
72編は王様をたたえ、王様のために祈る詩だから。だったら、ただ王様のことだけで終わらせるのではなくて、「わたしたちのこんなすばらしい王様を与えてくださった神様を賛美しよう」っていう詩がつくられたんじゃないだろうか。
だからこそ、王様の即位のときに歌われるとい伝統もできた、そういうふうにも考えられるんじゃないかなぁと思うんです。
付け足すこと
礼拝では毎週、主の祈りを祈るけれど、これは福音書の中でイエス様が弟子たちに「祈る時にはこのように祈りなさい」と教えたテンプレートです。
ただ実は「主の祈り」と呼ばれているお祈りにはいくつか種類があります。千葉バプテスト教会で使っている「主の祈り」は、1880年訳と呼ばれているものです。言葉が古くて難しいと思ってた?実際に140年も前の翻訳なんだ。
で、この1880年訳の主の祈りでは最後に「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」となっているけれど、この部分はイエス様が弟子たちに「祈る時にはこう祈りなさい」と教えた中には入ってないんだ。
「悪より救いいだしたまえ」までが主の祈り。
「国と力と栄とは」は別のお祈りで、「主の祈り」を祈る時に続けて「国と力と…」の祈りが祈られていたんだ。
それを千葉教会が使っている主の祈りでは、ひとつのお祈りであるかのように祈ってるわけ。
なぜ付け足したの?そんな付け足しをしていいいのか?という話なのだけど。
じゃあ「国と力と栄とは」を抜いたらどうなる?つまり、主の祈りが「悪より救い出したまえ」で終わりだったら?ということを考えてみると、なぜ付け足したのかがわかってくる。
日本語訳では「悪より救い出だしたまえ」という文章になるけど、これが英語訳だと「deliver us from evil」になる。「evil、悪」という言葉で主の祈りがおわることになるんだ。
イエス様が教えてくれた祈りで、父なる神様に祈る、というときに、最後が「悪」で終わるのってどうよ?って考えられたらしい。
それよりは主をたたえる言葉で終わりたい、そういう気持ちから、イエス様が教えた「主の祈り」に続いて、「国と力と栄とは、限りなく父なる神様のものです」とたたえる祈りを祈るようになった。
それが1880年訳では、もう主の祈りの中に「国と力と栄とは…」を入れていいよね、っていうことになったらしいです(所説あります)
そう考えると、主の祈りに「付け足し」をしたのは正解って思わない?
詩編72も、「王様のために祈る賛美、人間である王様が中心の詩」だけで終わるんじゃなくて、やっぱり最後は主をたたえる言葉で終わりたい。
大事なのは「付け足したかどうか」ではなくて
大事なのは「王様のための祈りの歌」である詩編72が歌われるときには「主を賛美する言葉」でしめくくられていた、ということ。
18-19節の主を賛美する言葉が「最初にこの詩が作られた時から入っていたのか」「この詩が詩編の第2巻に入れられるときに付け足されたのか」は、実は全然重要ではないわけです。
誰が付け足したのかではなくて、賛美する言葉が入ってる今の形がこの詩の完成形として伝えられてきた、ということが大事。
イエス様も、イエス様の名前で祈ることは何でもかなえてあげるって約束してくれた。だからぼくたちは何を祈ってもいいんだ。でも神様に祈り求めるときはやっぱり、神様を賛美する言葉で終わりたい。祈るということは、「こんなにすばらしい神様が、わたしたちの祈りを無視することなく、かならずこたえてくれる」ということなんだから。
讃美歌を歌うときは、自分がどんな歌詞を歌っているのかということを、大事にしてほしいです。
歌というのは詩と曲と両方でできてるのだから、詩と曲とどっちが大事だというのではないです。曲にも、そのメロディでどんなことをつたえたいのか、どんな気持ち、どんな祈りをこめたメロディなのかという思いがある。それが音であらわされてるので、音楽の専門知識がないとわかりにくいということはあるんだけど、詩のほうははっきり言葉で、どんな気持ち、どんな祈りをこめたのかがあらわれているのでわかりやすいです。
最後に詩編72編の全部を朗読します。ここまでいろいろ、ぼくの感じたことを語ったけれど、自分は何かを感じるか、どう感じたか、ということを大事にしてください。
この詩は神様の名は最後に一度だけ出てきます。新共同訳では「主なる神を」に変更していますが、下記では「神であるヤハウェを」に直しています(このページ冒頭の動画でもそのように直して朗読しています)
詩編72編
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