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エリ、エリ、レマ、サバクタニィィィ!【マルコによる福音書15:34】【やさしい聖書のお話】

〔この内容は教会学校動画の原稿を再構成したものです。キリスト教の信仰に不案内な方には説明不足なところがあるかと思います。教会学校動画は↓のリンクからどうぞ〕

この日なんの日きになる日

今日の日曜日はいろいろな呼び方があります。

今日は「しゅろの日曜日」

 「枝の日曜日」とも言います。
イエス様がロバの子にのってエルサレムに入城したとき、人々がしゅろの枝を切って来て、イエス様が進んでいく道に敷いたことに由来します。
自分の服を脱いでイエス様の道に敷いた人もいました。これは旧約聖書の時代に、主が悪い王様アハブを倒すために将軍イエフを次の王様に選んだ時、人々が新しい王様を喜んで、上着を脱いでイエフの足元に敷きました(列王記下9:13)。イエス様がエルサレムに入城したとき、エルサレムの人々はイエフのできごとを思い出して、イエス様を新しい王様として迎えたんです。

将軍イエフと救い主イエス様。カタカナで書くとほとんど同じだね。
イエフの「イエ」もイエス様の「イエ」も神様である主ヤハウェのことなので、名前の意味も似てます。「イエフ」は「彼はヤハウェ」という意味で、「イエス」は「ヤハウェは救い」という意味。
救い主も王様もメシアと呼ばれるので、ここも共通。メシアは「神である主の意志によって、頭に油をそそがれた人」のことなのだけど、イエフやダビデなどの王様も主に選ばれて頭に油をそそがれて王様になったんだ。
イエフという王様はまるで、「イエスという救い主が来る」と予告していたような人かもしれない。

今日は「受難の主日」

今日は「受難の主日」とも呼ばれます。今週の金曜日がイエス様が、十字架で苦しみを受けた日だからです。
それで今日から土曜日までの7日間を受難週と言います。
日曜日に、イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入城。
木曜日の夜に、最後の晩餐→ゲツセマネでイエス様がとらえられる→イエス様の裁判が始まる。
金曜日にイエス様が十字架で死刑にされて、お墓に葬られる。
こういうできごとがこの一週間のあいだにおこりました。

受難週は、英語だと「パッション・ウィーク」といいます。
パッションは、pを小文字で passion と書くと、情熱とか熱愛、熱中という意味。でもPを大文字にして the Passion だと、イエス様の受難のことになるんです。もとのラテン語のpassionateが「苦痛」という意味だったんだって。

 今日は「受難節第6日曜日」

今年は3月の第1日曜日から始まった「受難節」の、今日は6回目の日曜日です。
受難節は、主の苦しみは私の罪のためだったことを思い出す季節です。

今日は、
「しゅろの日曜日」としてイエス様が王様であることを記念して、
「受難の日曜日」として、イエス様の十字架の苦しみを記念して、
「受難節第6日曜日」として、イエス様の苦しみは私のためだった、ぼくのためだったということと向き合う日なんです。

そして来週の日曜日は、イエス様が復活したことを記念する復活主日(復活の日曜日)、つまりイースターです。
来週ぼくたちはきっと教会で「主の復活おめでとうございます」「イースターおめでとうございます」て挨拶すると思う。でもそれは、イエス様の十字架の苦しみがあったからこそのおめでとうなんだということ。イエス様は本当はそんなことしなくてよかったのに、ぼくの罪がゆるされるために、ぼくのためにぼくの代わりに苦しみを引き受けてくれたからおめでとうなんだっていうことを、おぼえておいてください。

イエス様が受けた苦しみ


 イエス様の苦しみというのは、十字架につけられたのはもちろん苦しかったでしょう。大人の男性の体を支えるには、30cmくらいの長さの釘が必要だっただろうという説もある。そんなものを手と足にぶっ刺されるだけでも激痛だっただろう。
でもそれだけじゃない。その状態で十字架を立てると、手と足に釘が刺されてるところで体重を支えるようになって、肺が圧迫されて呼吸が苦しくなるんだそうです。息ができるように、釘を刺されているところを支点にして体を持ち上げなきゃいけなかった。
十字架はイエス様の体をそんなにも苦しめたんだ。

周り中から馬鹿にされ笑われた苦しみもある。その人たちのためにイエス様は十字架で苦しんでいるのに。自分の民のところに来て、自分の民を罪から救うために十字架にかけられた救い主を、民があざけり笑う。どれほど苦しいことだろう。

イエス様は、十字架の前には鞭で打たれた。刑罰で使う鞭というのはとても凶悪で、革のヒモには動物の骨のカケラとか金属が結び付けられている。そんなので打たれたら、一発で背中の皮膚が裂けて血が噴き出すようなシロモノで、それをイエス様は食らったんだ。

古代ローマのムチ
https://www.quora.com/What-did-the-Roman-soldiers-use-to-scourge-Jesus?top_ans=276249044

そしてついにイエス様は十字架で死んでしまった。

けど、先々週、ゲツセマネのところで話したけれど、イエス様の苦しみというのは、体の痛さよりも、ばかにされるつらさよりも、何よりも、父から捨てられるという苦しみだった。罪のない神様であるイエス様が、罪があるものとして、父なる神から捨てられるという、体が死ぬことそのものよりはるかに苦しいことをイエス様は引き受けてくれた。

だからイエス様は、十字架の上でエリ、エリ、レマ、サバクタニと叫んだ。私の神様、私の神様、どうしてわたしを見捨てたのですかって。

エリ、エリ、レマ、サバクタニ

「十字架の七声」という言い方があります。四つの福音書が伝えている、十字架の上でのイエス様の七つの発言のことです。
有名な「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」もそのひとつで、日本語に訳すと「わが神、わが神、なぜ、私を見捨てたのですか」という意味。

マルコによる福音書では「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」となっていますが、これはアラム語と言う言語です。
実際にはイエス様は、マタイによる福音書が伝えているように、ヘブライ語で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言ったと考えられるので、「エリ、エリ、」で話を進めます。

で、この言葉は詩編22編でダビデ王が主に向かって叫んだ最初の言葉なんだ。

わたしの神よ、わたしの神よ、
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、
うめきも言葉も聞いてくださらないのか。 

詩編22:2(新共同訳)

では父はなぜ十字架の上で叫ぶイエス様を救おうとしなかったのか?
それは、イエス様がすべての人の罪を引き受け、罪ある者として父から捨てられたからです。

ダビデはさらに歌います。

わたしは虫けら、とても人とはいえない。
人間の屑、民の恥。
わたしを見る人は皆、わたしをあざわらい
唇を突き出し、頭をふる。
「主に頼んで救ってもらうがよい。
主が愛しておられるなら、
助けてくださるだろう」

詩編22:7-9(新共同訳)

このとおりのことが、イエス様の十字架のまわりでおきました。
ダビデが主に向かって叫んだこの詩編は、救い主がぼくたちのためにどんな目にあうことになるかを預言したものでもあったんだ。

 詩編は23編が有名だけど、イスラエルの人たちは22編もとても愛しています。
主から捨てられたかのように苦しみの中から訴えるダビデの詩は、歴史の中でキリスト教徒たちから苦しめられ続けてきたユダヤ人たちの気持ちと、とても重なるのでしょう。

 でも、イエス様は十字架で死んだことで、勝利したんです。

十字架の死という勝利

イエス様を神の子でも救い主でもない、世の中をよくしようとした活動家のように考える人たちは、十字架で死んだのはイエスの活動が失敗に終わったということだと、何も結果を残さずに退場したのだという読み方をするようです。もちろん復活も信じない。

でも聖書ははっきりと、そうではないことを告げています。イエス・キリストは死に至るまで父なる神に従いとおしたので、世のすべてがイエスの御名にひざまずくのだと。

キリストは、神の身分でありながら、…人間の姿で現れ、へりくだって、十字架の死にいたるまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」とおおやけにのべて、父である神をたたえるのです。

フィリピ2:6-11(新共同訳)

 サタンと呼ばれる悪魔は、神である主に代わって自分が神になろうとして、そのためにぼくたちを罪の中にいるままにしておいて主から引き離しておこうとします。
でもイエス様の十字架によってぼくたちは罪から解放され、「イエス・キリストは主である」と賛美するんです。
イエス様が十字架で死んだことが、イエス様の勝利で、父である神の勝利で、そしてぼくたちの勝利だから。

何に勝ったのかというと、悪魔と、罪に勝ったんです。
そして三日目にはイエス様は、「死」にも勝ってよみがえるんです。

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