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喜び祝え!~城壁奉献~【ネヘミヤ記12章】【やさしい聖書のお話】

noteへのアップが止まってた分、今回は2022年11月20日の聖書のお話から。
ネヘミヤ記からのお話の最終回、完成したエルサレムの都の城壁を主にささげる「奉献式と祝典」(12:27)です。

時空のゆがみ?

城壁は6章で完成しているのに、12章になってやっと城壁の奉献式?というのも面白いですね。
ただ、ぼくたちの千葉バプテスト教会の現在の教会堂も、1999年3月28日に業者から建物が引き渡されて、4月4日には新会堂でイースター特別礼拝をさささげているけど、献堂式、教会の建物を主に献げる「奉献式と祝典」をやったのは5月2日なんですね。ちなみに新会堂への引っ越し作業は2月28日だったらしいので、2か月以上経ってます。イスラエルの祝い方もそういう感じだったのでしょうか。

でも実は、12章の城壁奉献式は、6章の城壁完成からあまり時間が経ってないらしいです。聖書は、時間順に伝える必要があるとき以外は、できごとを時間順に記録してるわけじゃないからね。
創世記1章では6日間で世界がどのような順番で創造されたかが書かれた後、2章では人の創造をもう一度詳しく書いている。時間順だと思いこんで読んでしまうと、天地創造が1章と2章で2回あったみたいに見えるけどそうじゃないんだ。
旧約聖書の歴史書なんかはね、どの王様の次はどの王様みたいに時間順に書くことに意味がある場合はそうなってるけど、そうじゃない場合には、「時間順」ということはあまり意識されてないかもと思ったほうがいいかも。

奉献式と祝典

さて、じゃあエルサレムの城壁の奉献式はどんなだったんだろうということなのだけど。

「奉献式と祝典」というだけあって、盛大だったようです。
まず、祭司たちとレビ人たちは、自分の身を清めました。祭司だから清いというんじゃなくて、神の前に進み出るために身を清めなければいけなかった。バプテスマ式みたいに全身を水で清めたようです。

それから祭司たちは、民と城門と城壁を清めた。これはバプテスマ式のようにはできない。律法では、けがれた人やモノを清めるために「清めの水」というのを用意して、ヒソプという草をその水につけてけがれた人やモノを清める儀式を神様が決めているので、ネヘミヤ記でもそのようにして、民や城門、城壁に「清めの水」をふりかけて清めたのかもしれない。
ぼくたちは、イエス様が十字架で死んだのは自分のためだったと信じる信仰によってぼくたちは清くされています。でも十字架よりも前の時代は、何かあると毎回こうして律法に従って清めなければならなかった。
とにかくこうして、主にささげられる城壁と城門も、それらを主にささげるイスラエルの民も、清くされました。

聖書の「ヒソプ」は現代の「シリアンオレガノ」だろうと考えられています。
画像は西南学院大学の聖書植物園より。

一方ネヘミヤは、「二つの大きな合唱隊を編成」しました。合唱隊の一つは城壁の上を右へ、もう一つは左へパレードしていきます。
合唱隊のあとにはラッパ担当の祭司や、詠唱者、民のおさたちが続きます。このラッパは角笛ではなくて金属製のラッパで、それが吹き鳴らされ、シンバルや竪琴なども合奏、そして詠唱者や合唱隊が賛美を歌います。

そして民は「大いなるいけにえを屠り、喜び祝った。神は大いなる喜びをお与えになり、女も子供も共に喜び祝った。エルサレムの喜びの声は遠くまで響いた。」

祝典です。
セレブレーションです。
お祝いの祭りです。
礼拝式にはおごそかさも必要かもしれないけれど、喜び祝う時には本気でお祝いするんです。

神のはたらきびとを支える

城壁と城門を主にささげた喜びの中で、十分の一のささげものを保管する倉庫の監督が任命されました。そこにユダの町々からささげものが集められ、おさめられます。律法に定められているとおり、祭司とレビ人が生活していくためです。
彼らはイスラエルのほかの部族のように働いて収入をえることができません。神様に仕えるのが仕事だからです。それでほかの人々がレビ族の生活をささえるのです。

バプテスト連盟の新生賛美歌にのっている「教会の約束(参考用)」の中で、「わたしたちはこの教会を支え」ということを約束しています。これは約100年前、明治時代から大正時代にかけて使われていたバージョンでは「われらの牧師を養い」という言葉でした。

表現が直接的すぎるのか「われらはこの教会を支え」に変更されたあとも「牧師を養い」に戻そうとする意見も強かったようです。
いずれにしても、献金で教会を支えるということの中に、牧師の生活を支えるということを含んでいるので、ネヘミヤの時代とかモーセの時代の「祭司とレビ人の生活をささげもので支える」ということを私たちも大切に受けついでいるのです。

ただぼくたちの献金は神様にささげるもので、それが神様の御用のためにがんばる牧師の生活を支えるためにも使われるということ。
これはバプテスト連盟の話ではないのだけど、ある牧師が「たまには」と思ってステーキ屋さんに入ったら、たまたま教会の人がそれを見て「俺のささげた献金が牧師のステーキになってる」と怒ったという話があるんだ。それはなんか違うよね。
ぼくたちは地上の教会を支えるために、主に献金をささげる。そして主が牧師を養ってくださるし、ぼくたちも養ってくれる。牧師はぼくたちの家来じゃないんだから、「俺たちが献金で教会を支えてるんだから、牧師は贅沢するな」は間違い。 
教会学校では献金のお祈りで「神様のごようのためにお使いください」という言い方もするけど、でもね、使うかどうかもぼくたちが決めるのではなく神様が決めることなんだ。「私たちのささげものをお受けください」ということ以上のことは、神様をぼくたちに従わせることになるんじゃないかなっていう気がします。

動画版のご案内

このnoteの内容は、2022年11月20日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。

動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。

https://youtu.be/6w3WlBzsiQM


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