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聖書は「雄々しくあれ」と命じるけど...【エフェソの信徒への手紙3:14-21】【やさしい聖書のお話】

ぼくがほしいのは「祈ってます」じゃなくて

ぼくが高校3年生のとき、教会の大人たちが「大学合格のために祈ってますよ」って言ってくれたんだけど、こんなのプレッシャーでしかなかった。もしぼくが大学受験に失敗して「みんなの祈りがきかれませんでした」ってことになったら、祈ってくれた人の信仰どうなっちゃうんだろうって。

どうもなるわけないんだけどねw

でも、ぼくのお父さんが牧師をしていた教会だったから、ぼくは小さい時から「教会のみんなをがっかりさせちゃいけない」って思ってたからさ。自分の親が教会のみんなからとても愛されてる、大事にされてるって子供のぼくにもよくわかったから。ぼくがグレて不良になったりしたら「親が悲しむ」とかよりも「教会のみんなが悲しむ」って。親からは「お前は自意識過剰だwお前はそんなこと考えなくていいんだ」って言われてたけど。
そんなだから「大学合格のため祈ってます」ってのはプレッシャーだった。せめて「進路のために祈ってます」くらいだったらよかったのだけど。

まあとにかく、教会ではよく「祈ってます」って言葉が使われるわけです。
「〇〇のため祈ってます」とか「〇〇になるように祈ってます」も多いけど、ただ「祈ってるからね」だけっていうのも多い。

で、この「祈ってるからね」が、ぼくにはただの挨拶というか、社交辞令に聞こえるようになってしまったw
別に疑ってるわけじゃないんだよ。「本当は祈ってくれないんだろ」なんて思ってるわけじゃないんだ。
でも、「祈ってます」といってあとで1時間くらい祈るよりも、今ここで一言でいいから祈ってほしい、なんて思うようになった。

だから自分でもね、できるだけ、「祈ってます」っていうんじゃなくてなるべく「ちょっとだけお祈りするね」ってその場で相手のために祈るようにしている。
たとえば寄せ書きとかメールとかでも、なるべくね、「祈ってます」っていうんじゃなくて、具体的に祈りの言葉を書くようになったのだけど。

今日はエフェソ3章の後半で、パウロがエフェソ教会の人たちに書き送った祈りの言葉なんだけど。たとえばこれを全部まとめて「あなたたちのために祈ってます」とだけ書くこともできたかもしれない。でもパウロは具体的に、それもかなり濃い祈りの言葉を書いてるんだ。全部を紹介する時間はないのだけど、ぜひ自分で読んでみてほしい。

父が強くしてくれる

まずパウロは、父があなたがたの内側を強くしてくださるようにって祈ってることに注目です。

どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

エフェソ3:16-17(新共同訳)

 聖書はぼくたちに「強くなれ」って言ってる。たとえば今年度の千葉バプテスト教会の年間聖句はこの個所だね。

強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。

申命記31:6(新共同訳)

「雄々しい」って言葉は、現代だと「男らしさの強制だ」とか「女性蔑視だ」とされるかもしれないけど、意味としては男とか女とか関係なく「勇ましい」という意味ね。
で「雄々しくあれ」という言葉は、主がモーセやヨシュアをとおしてイスラエルに命じたり、パウロが弟子のテモテに命じたりと、聖書に何回も出てくる。
他にも、イエス様がゲツセマネで弟子たちに「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と命じたり(マタイ26:41)。
とにかく聖書はぼくらに、勇敢になれ、強くあれ、勝利しろ、っていろいろな言い方で要求している。

でもパウロは、「父が、あなたがたを強くしてくださるように」って祈ってるんだ。
聖書は、「強い者だけが神の国に入れる。弱くてついてこれない者は置いていく」なんて宗教じゃないんだ。父がぼくたちを強くしてくれる。
イエス様も十字架の直前に、ペトロがイエス様を3度も知らないと言うって予言した場面では、イエス様がペトロのために祈ってるから大丈夫だぞって言ってる。

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

ルカによる福音書22:32(新共同訳)

イエス様はこういうふうにも言ってる。

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている

ヨハネによる福音書16:33(新共同訳)

聖書は、人間は弱いんだってことを突き付ける。特に、悪魔とよばれるサタンには、絶対にぼくらは勝つことはできない。
でも主は、サタンよりはるかに強い。ぼくらが弱くても主が強いから大丈夫なんだって、聖書は教えている。

「雄々しくあれ」とか「勇気を出しなさい」ていうのは、気持ちの問題。どんなに勇敢でも、勇気を出しても、自分より強いものには勝てっこない。
でもぼくらが勇気を出して悪魔に立ち向かうなら、たとえば誘惑に対して勇敢に立ち向かうなら、すでに勝ったイエス様が共にいてくれる。主がぼくたちのために戦ってくれる。父がぼくたちを強くしてくれる。だからぼくらは大丈夫なんだ。

イスラエルがエジプトを脱出したあと、エジプトの大戦車軍団が追跡してきたとき、イスラエルがパニクってもモーセは落ち着いていた。モーセは、自分たちが負けるとかやられるとか考えてなくて、主が共にいることを信じていた。
だからモーセはみんなにこう言った。

「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」

出エジプト記14:13(新共同訳)

そんなことを言われたからって、イスラエルが恐れずに落ち着いて主を待つなんて、簡単じゃないよ。
自力で助かる方法はないからといって、何もしないで落ち着いて待つなんて無理ゲーだよ。
でも彼らは勇気を出して、雄々しく、主を待ったんだ。

そうしたらどうなったかは、みんなも知ってるよね。主は海を真っ二つにしてイスラエルを逃がし、そしてエジプトの大戦車軍団を海で全滅させた。

雄々しくあれとか、強くあれとかって聖書が言ってるのは「お前たちは悪魔と1対1で勝てるように」ってことじゃないんだ。

「強くあれ、雄々しくあれ」は、悪魔とタイマンで勝てるようになれなんてことではない!

どんなときでも主から離れない。主から目を離さない。主に信頼して、主がしてくださることを待つ。そういう「内なる人(内面)の強さ」なんだ。
で、そういう内面の強さも、父が強くしてくださる。
だからぼくたちは大丈夫なんだ。

キリストの愛を理解する

パウロの、エフェソ教会のみんなのための祈りが続きます。

また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

エフェソの信徒への手紙3:18-19(新共同訳)

これはパウロの祈りではあるけど、それが聖書によって伝えられているということは、ぼくらはこれも神様からの言葉として受け取るということだ。
ということは、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」をぼくたちは「理解」できるのだと、聖書が、神様が言ってるんだね。

聖書は、人が神を理解することは不可能だと教えている。それは、陶芸家に作られたツボが陶芸家を理解できないようなものだと。

造られた者が、造った者に言いうるのか
「彼がわたしを造ったのではない」と。
陶器が、陶工に言いうるのか
「彼には分別がない」と。

イザヤ書29:16(新共同訳)
神に創造された人間が神を理解するのは、
陶芸家に創造された作品が陶芸家を理解するようなもの。ムリ!

そして聖書は、キリストが神であることを伝えている。
ということはぼくたちは、キリストを理解することはできない。聖書が示してくれる範囲で、あと、ぼくらが生きている中で(たとえばぼくらの祈りへの応えで)神様が自分で自分のことをぼくら知らせてくれる範囲で、知ることができるだけ。

でも今日の個所では、「あなたがたが、キリストの愛がどんなにすごいかを理解できるように」と祈られている。キリストは理解できなくても、キリストの愛のすばらしさは理解できるのだ、と。

神であるキリストは理解できない。
神であるキリストの愛は理解できる。
どういうことだろう。

愛を理解するということは、こちらも愛するってことなんだ。
こちらが愛さないと、どんなに愛されていても、それが愛だって理解するのは難しい。
たとえば親を愛していないと、親から愛されていることが理解できなくて、「子供が生まれたからしかたなく育ててるんだろ」「子供の世話をするのは親の仕事だろ」としか思えないかもしれない。でも親への愛があるなら、自分が親を愛するよりもはるか大きな愛で親から愛されていることがわかるようになる。
同じように、ぼくらがキリストを愛するとき、ぼくらの愛よりもはるかに大きな愛でキリストに愛されていることがわかる。ぼくらにそそがれるキリストの愛がどんなに広くて長くて高くて深いかがわかるんだ。

ぼくらの祈りを超えて

3章の最後の祈りは、ぼくが特に好きなものです。

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

エフェソの信徒への手紙3:20-21(新共同訳)

ぼくが礼拝の司会当番のときの開会祈祷では、ウクライナの戦争が始まってからは、ルカ2:14の言葉を祈りの最後に祈っているのだけど、

いと高きところでは、神に栄光があるように、
地の上では、み心にかなう人々に平和があるように

ルカによる福音書2:14(口語訳)

以前にはよくエフェソ3:20-21の言葉を開会祈祷の最後に祈っていました。
主は 「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえること」ができるって、すごくわくわくする。
これ、つまり「ぼくたちが求めてもいない、思ってもいないこと」を主はかなえることができるというんだよ。
自分も気づいていなかった「わたしにはそれが必要だ」を主は満たしてくださるというんだよ。こんなサプライズほかにある?
そんな主に「教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように」と賛美を祈る。
パウロの祈りの言葉は素晴らしいものが多いけれど、ここの言葉は特にすばらしい祈りだなって思うんだ。

ところで、主が 「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえること」ができるからといって、それは「だから祈らなくていい」ということではないよ。
「ぼくらが求めたり思ったりすること」が無だったら、それを超えてかなえるも何もないよね。
これは「だから求めたり思ったりしなくてもいい」じゃなくて、もっともっと、主に求めていこうっていうことなんだ。

祈る時に、遠慮してしまうことはないかな?
「こんなこと祈ってもいいのかな」とか
「もっと困ってる人がいるのに私なんかが祈っていいのかな」とか
「これは祈ってもどうにもならないかも」とか。
でもぼくらを愛してる主は、ぼくらにたくさん与えたいんだ。

モーセが主に「もうイスラエルのリーダーやるのムリです」と言ったとき、主は「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう」と答えた(民数記11:23)
これね、松岡修造が「もっと来いよ!」って言ってる感じ。
主は「もっと求めろよ!私にはそれができないと思うのかよ!」て待ってる。その上で、私たちが求めたり思ったりすることを「はるかに」超えてかなえてくれる。

そんな主が、ぼくたちの神なんだってことを、忘れないでいてください。

動画版はこちら

この内容は、2022年7月17日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。

動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、このページと動画の内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。

動画版は↓のリンクからごらんいただくことができます。


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