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プリム祭の話/悪いのは裏切ったユダ?【マルコによる福音書14章10-26】【やさしい聖書のお話】

〔この内容は教会学校動画の原稿を再構成したものです。キリスト教の信仰に不案内な方には説明不足なところがあるかと思います。動画版は↓のリンクからどうぞ〕

エステル記のプリム祭

 こんにちは。のぶおリーダーです。

なんでこんな仮装してるのかって?

旧約聖書のエステル記は、ユダヤの人たちがペルシャ帝国で生きていた時代の物語です。悪い大臣のハマンの策略によってすべてのユダヤ人が皆殺しにされる直前に、王妃エステルの勇気でユダヤ人が守られ、ユダヤ人を殺そうとした人たちが打倒されたという物語で、このできごとがあったアダルの月の14,15日を「プリムの祭り」として記念するようになった、とエステル記に書かれています。

現代のカレンダでは今週の3月16日の夕方から17日の夕方にかけて、イスラエルではプリム祭を祝います。

プリム祭「purim festival」で画像検索すると、コスプレの写真ばかり出てきます。現代イスラエルではプリム祭は仮装して楽しむのがお約束なんです。
だって、ユダヤ人が皆殺しになるところが助かって、逆に敵をやっつけたんだよ。どれだけうれしい喜びの日か。
実はエステル記には、「神」という言葉も「主ヤハウェ」の名前も、一度も出てきません。それでも、これは確かに主が、神の民を守ったできごとだったと、ふざけたような仮装をしながらも楽しみ喜ぶわけです。

最後の晩餐

さて、今日の聖書のお話は、エステル記ではなく、マルコ14勝の最後の晩餐の場面です。

最後の晩餐がテーマの名画たち

「最後の晩餐といえば」というとやっぱり、ダビンチの絵が有名ですよね。

レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院(ミラノ)
制作: 1495年 - 1498年

 でも最後の晩餐をテーマに制作したアーテイストはダビンチだけじゃないです。
ウィキペディアの「最後の晩餐#絵画」によると、エル・グレコ、ジョット、ダリなんかも最後の晩餐を描いているようです。

個人的には、ティントレットの「最後の晩餐」とか、雰囲気が好きですね。

ヤコポ・ティントレット「最後の晩餐」
サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂(ヴェネツィア)
制作:1592-1594年

あと、ルーベンスの作品。イエス様がパンを手に、天をあおいでいる構図が好きです。ヨハネによる福音書17章の、イエス様の父への長い祈りの場面を思い出します。

ピーテル・パウル・ルーベンス「最後の晩餐」
ブレラ美術館(ミラノ)
制作:1632年?

 

 まあでも、なんだかんだいってもレオナルド・ダ・ヴィンチの絵が有名だよね。パロディ作品もレオナルドの作品がベースになってるものがたくさんある。(→「最後の晩餐 パロディ」で画像検索してみて)

こちらから画像を拝借
Vサインしてる弟子だれだよ。中指を立ててるのがユダか?

 「最後の晩餐」のパロディといえば、イスラエルの写真家アディ・ネスのこの作品が有名。

アディ・ネスの「最後の晩餐」テーマの作品

アディ・ネスはイスラエルの兵士をモチーフにしたシリーズを発表しているのだけど、この写真もイスラエルの兵士たちです。
イエスも弟子たちもユダヤ人だったというメッセージもありそうだね。真ん中がイエス様だとすると、ほかの全員がイエス様を無視して盛り上がっていて、イエス様だけ一人で沈痛な表情というのが、最後の晩餐のとき弟子たちは誰ひとりとしてイエス様の心がわかっていなかったということまで表現されてる感じ。
この作品、オークションで26万4千ドル、3千万円以上の値段がつけられたそうですが、それだけのことはあるすごい作品だと思う。

弟子たちの座り位置

 最後の晩餐というと、イエス様と12弟子と言うことで、少なくとも13人が描かれるのだけど(弟子が11人だったり13人だったりする作品もあるけど、どんな意図があるのだろう)。
イエス様はだいたいわかるとして、あとの12人は誰が誰なのだろう。

たとえばギルランダイオの作品。一人だけ、座り位置がおかしいよね。

ドメニコ・ギルランダイオ「最後の晩餐」
バディア・パッシニャーノ教会(ミラノ)
制作:1476年?

ガッディの作品でも一人だけ座り位置が独特。

タッデオ・ガッディ「生命の木と最後の晩餐」
サンタ・クローチェ聖堂(フィレンツェ)
制作:1360年頃?

上記のギルランダイオの作品はダ・ヴィンチよりも約20年前、ガッディの作品は約100年前。
実は長テーブルにずらりと並ぶ構図そのものは、ダヴィンチのオリジナルじゃなくて、ずっと古くからの伝統的なものだったんです。その「伝統的な最後の晩餐」では一人だけテーブルのこちら側に座らせるのがお約束でした。
ダヴィンチは、伝統を破って全員をテーブルの向こう側に座らせるようにしたのがオリジナリティ。

で、座り位置がおかしい一人というのは、考えるまでもなく、「裏切り者」イスカリオテのユダだよね。
教会が所有している宗教画が多いというのは、教会の注文で制作されたものが多いということです。
教会を飾る絵画やステンドグラスや像などは、字を読める人が少なかった時代にビジュアルをとおして聖書を伝えるためのものでもあったんです。そうすると、最後の晩餐という重要な場面も伝えないわけにいかない。でも裏切り者のユダなんて描きたくないというか、少なくともイエス様やほかの弟子たちと同列にしたくなかったんだろうな。

キリスト教の宗教画では光背といって、人物の頭のうしろに光の輪のようなものが描かれます。これは「イエス・キリストの光背」「聖母マリアの光背」「その他の聖人の光背」などは必ず描き分けられるようになっていて、マリア様といえども「神であるキリスト」と同じ光背を描くことはありえないものです(マリアは重要人物として「崇敬」されるけれど、かみさま扱いして「崇拝」はされない)
ロッセリの「最後の晩餐」がわかりやすいのだけど、テーブルの向こう側にいる全員に金色の光背が描かれているけれど、イエス様の光背だけ十字架のデザインが書き込まれている。左右の端に立ってる人たちは光背が描かれなくて、聖人でもなんでもない一般人であることを表わしている。
で、テーブルのこちら側に一人だけ座ってるのがユダなのだけど、アップにすると黒い光背のようなものが頭に乗っています。しかも後頭部に小っちゃい悪魔がはりついているw
システィーナ礼拝堂にあるこの作品は幅が5.7メートルもあるので、見る人には「ああ、ユダにサタンが!」って聖書の物語が伝わるわけです。

コジモ・ロッセリ「最後の晩餐」
システィーナ礼拝堂(ローマ)
制作:1481-1482年

上のほうで紹介したルーベンスの作品では、一人だけこちら(見る側)に顔を向けてるのがユダでしょうね。とてもおもしろいです。

ユダが裏切り者なのは事実、だけど?

ユダが裏切り者だというのは、イエス様を殺したかった宗教家や指導者たちからお金を受け取って、イエス様をつかまえる手伝いをしたからです。

キリスト教や聖書を知らない人でも「裏切り者のユダ」というのは知ってたりする。「北斗の拳」でも、南斗六聖拳の一人、妖星ユダなんていうのが出てきて、表向きは拳王に忠実に従ってるふりをしながら裏切って自分が世界を制することを狙ってたりした。

南斗六聖拳の妖星ユダ

 ところで、ユダはなぜイエス様を裏切ったのか?

マタイによる福音書には、ユダはお金が目的だったと伝えている。
でもユダが受け取ったお金は「たったの銀貨30枚」なんだ。
時代が違うけれど旧約聖書では、銀貨30枚というのは、他人の奴隷をうっかり死なせてしまった場合の弁償の額。イエス先生を「イスラエルを救うメシア」と思って従ってきたユダが、そんな安いお金ほしさに裏切ったのだろうか(「銀貨30枚」はもっと価値があるという説明もあります)

 ヨハネによる福音書は、ユダにサタン、悪魔が入り込んだからだ、と伝えています。
でもサタンは、この少し前にはペトロに入って、イエス様が十字架に向かっていくのを止めようとしたんだよね。サタンは、イエス様を十字架にかけたいのか、邪魔したいのか、どっちなんだ?

聖書が伝えているユダの理由は、すべて正しいのだろう。つまり、どれかひとつが理由なんじゃなくて、ユダの中でたくさんの理由があって、イエス様を裏切った。
ユダは、イエス様がメシア、救い主だと信じていて、そして救い主というのはイスラエルを神の民の国として建て直す王様だと信じていたのだと思う。それは具体的にいうと、ローマ帝国を倒してユダヤを解放するということ。これはユダだけじゃなくて弟子たちみんながそう思ってたから、イエス様が復活したあとにも彼らは「イスラエルのために国を建て直すのは、イエス様が復活した今こそですか」と質問してる。

ただ、イエス様が王様としての行動を始めないどころか「人々の手にかかって殺される」と言い出したことで、ユダは「思ってたのと違う」てなったんじゃないかな。

それで、がっかりしてイエス様を裏切った。
または「イエス様をピンチに追い込めば、神が天の軍勢を送ってローマを倒す」と期待したのでは?という説もあります。 

イエスは知っていた

 いろいろあるけれど、今日の聖書の個所で注目しておきたいのは、イエス様は自分が裏切られることも、誰が裏切るのかも、知っていたということ。

 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」

マルコによる福音書14:18

なのいイエス様は、この最後の晩餐で、パンとぶどう酒をユダにも分け与えたんだ。

主の晩餐のパンは、私たちの罪のために十字架で裂かれたイエス様の体をあらわしている。
主の晩餐のぶどうの杯は、私たちの罪のために十字架で流されたイエス様の血と、その血によって神様と私たちが新しい契約の関係に入ることをあらわしている。
そんな大事なものだからこそ、多くの教会では、イエス様への信仰を言い表してバプテスマを受けた人しか、主の晩餐式には参加できない。

さらに、カトリック教会ではプロテスタントの人は聖体拝領(主の晩餐)に参加できないし、プロテスタントの人もカトリック教会の聖体拝領に参加しようとしない。(カトリックでは、司祭の祈りに神様が答えて、パンとぶどう酒が「イエス様の体と血そのもの」に変化する奇跡が起きていると信じる。プロテスタントにとってはそれは「パンとぶどう酒でしかないものを神格化する偶像礼拝」になるし、カトリックにとっては「主の体と血そのものに変化したのに『パンとぶどう酒でしかない』というのは冒とく」ってなる)

そこまでこだわるくらい、それぞれの教会がそれぞれのやりかたで、主の晩餐を大切にしてきたんだ。

なのに!
記念すべき第1回の主の晩餐式である「最後の晩餐」では、イエス様は、「これはあなたがたのための私の体、あなた方のための私の血」と言いながら、ユダにも受け取らせているんだ。「あなたがた」の中にユダも入ってるんだ。ユダがイエス様を裏切るために出て行ったのは、そのあとだった。

「生まれないほうがよかった」とは

マタイによる福音書では、イエス様がユダのことを「その者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためにはよかった」と言っている。
「その者のためにはよかった」なんだ。
「そんなやつ生まれなかった方がみんなのためによかった」じゃないんだ。

イエス様を裏切ったのはユダだけじゃない。すべての弟子たちがイエス様を裏切ったし、罪をおかしているすべての人間は神様であるイエス様を裏切っている。
ユダだけが特に罪深いということはまったくない。
それなのにクリスチャンからもそうでない人からも2000年にわたって裏切り者としてその名前が記憶されているユダ。たしかにユダ自身のためには、生まれなかったほうがマシだったかもしれない。

というか、ぼくたちにとって、そしてすべての人にとって、ユダがイエス様を裏切ったおかげで、ユダがイエス様を人々の手に渡して十字架で死なせたおかげで、イエス様の十字架を信じるだけで罪をゆるされるようになった、という言い方もできる。

ぼくは小さいころから教会学校に行っていて、「ユダが裏切らなければ、大好きなイエス様が十字架で死ななくてよかったのに」て思うこともあった。ユダは悪役だった。
でもそうじゃなかったんだ。
ぼくが悪役だった。
イエス様を十字架で死なせたのはユダではなくぼくだった。
イエス様の十字架は「ユダのせい」じゃなくて、ぼくのせいだった。

受難節です。
イエス様の十字架はなんのためだったのか、誰のせいだったのか、考えてみよう。

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