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風のように変わる教えに気をつけろ【エフェソの信徒への手紙4:14】【やさしい聖書のお話】

変わらないものと、変わりゆくもの

聖書は、ぼくたちの神である主は永遠に変わらないと告げています。

まことに、主であるわたしは変わることがない

マラキ書3:6(新共同訳)

そして、神様からの言葉である聖書も変わることはありません。

人は皆、草のようで、
その華やかさはすべて、草の花のようだ。
草は枯れ、
花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない

ペトロの手紙一1:24-25 from イザヤ書40:8(新共同訳)

でもぼくたち人間は変わる。だから、聖書は変わらなくても聖書の読み方は変わる。
主の教えは変わらなくても、主の教会が教えることは変わる。
神様は間違えないし、ウソをつかない。でも人間は間違うし、必要だと思えばウソもつく。それはクリスチャンも教会も同じ。

変わった方がよいこと

「変わる」のがすべて悪いということじゃないよ。昔は間違っていたことが、今は正しく変わったということだってある。

たとえば、クリスチャンたちは「聖書が奴隷制度を認めている」といって、アフリカ人を暴力でアメリカ大陸に約1200万人も連れて行った。これはアメリカ大陸に生きて到着できた人数だけで、船で運ばれる途中で1割は死んだり殺されたりしたというし、アフリカで奴隷にするときにも武力が使われたし、アフリカの内陸部から海岸まで千キロ以上も無理やり歩かされたりしたから、どれだけの人が被害を受けたか、命を奪われたか。それをクリスチャンたちは「聖書が奴隷を認めている」といって正当化し続けたんだ。
でも今では、奴隷についてそういう聖書の読み方をするのは間違ってたよねと考えるクリスチャンがほとんどだと思う。

ほかにも、「アダムが先でエバがあとだったから、男が女よりえらいんだ」というふうに、教会は聖書を使って女性差別をしてきた。でもこれも今では、そういう聖書の読み方は間違っていたよねと考えるクリスチャンの方が多いだろうと思う。

間違っていた聖書の解釈は、変わった方がいい。
だからといって、コロコロ変わっていいということではないけど。

変わる「クリスチャンの教え」

今日はエフェソの4章だけど、こう書いてある。

わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、…

エフェソ書4:14(新共同訳)

風があっちから吹いたりこっちから吹いたりと向き変えるように、言ってることが変わりやすい教えに気を付けなさいって。

ぼくの知ってる牧師で、皇太子家の愛子殿下が天皇になれないということについて「女性差別だ」と批判している人がいます。
でもその牧師、秋篠宮家に悠仁殿下が生まれるまではずっと「天皇制は廃止するべきだ」と言ってたんだよ。
ほんとびっくりした。「風のように変わりやすい教え」の見本みたいな牧師だと思った。

2015年頃に、ぼくらの国を外国の軍隊からどうやって守るかについて日本中で議論になったとき、クリスチャンたちの多くが
「集団的自衛権は憲法違反だ、個別的自衛権しか認められない」
と声を上げました。

集団的自衛権というのは、いくつかの国が仲間になって「誰かが攻撃されたら協力しよう」という守り方。
個別的自衛権というのは、味方の国を作らないで自分の国だけでほかのすべての国からの攻撃と戦うという守り方。
どちらも国連憲章で認められている自衛権なのだけど、クリスチャンたちの中から「集団的自衛権は日本国憲法に違反。個別的自衛権でないとダメ」という声が激しく上がった。

でもね。この議論になった2015年より前は、自衛権、自分の国を守る権利という考え方自体が九条違反だって、クリスチャンたちは言ってたんだよ。
なのに「集団的自衛権」ていうことが出てきたとたんに、「個別的自衛権ならいいけど集団的自衛権は反対」って意見を変えたんだ。
これもほんとびっくりした。
(クリスチャンの全員がではなかったかもしれませんが、声を上げていたクリスチャンは「個別的ならともかく集団的はダメ」と大声をあげていました)

聖書の教えは変わらないです。でも人の教え、クリスチャンの教え、牧師の教え、教会の教えは変わることがある。
ぼく、のぶおリーダーが教会学校で教えてることだって、変わるよ。

変わる「のぶおリーダーの教え」

ぼくは今まで、いくつかの教会で通算すると30年くらい教会学校リーダーをやってるけど、ずいぶん変わった。

たとえば、ぼくが若い頃は「君が代とか、日の丸とか、天皇というのはよくないものだから、クリスチャンは反対するんだ」って教えてた。ぼく自身が教会や教会学校でそう教わってたからね。
でも自分でちゃんと聖書を読むようになって、歴史もちゃんと自分で勉強するようになったら、まったく逆というくらいに変ったよ。

聖書には、国旗や国歌に反対しなければならないなんて一言も書いてなかった。逆に、この世の権威は神様によるものだから従いなさい等の言葉が聖書に書かれていたんだ。
「私たちの国籍は天にあるのだから、この世の国を愛するのは偶像礼拝だ」なんて教えられたけど、イエス様は「小さいことを大事にできない人が大きいことを大事にできない」と教えている。この世の国を愛するという小さいことをできない人には、目に見えない神の国を愛するという大きなことを大事にできない、ていうことにならない?

それに聖書では、ヤコブがファラオに祝福の言葉を述べている。

だからぼくは、神の国を愛するという大きなことを大事にするために、この世で日本を大事にして、国旗や国歌を大事にして、天皇を祝福するということが聖書に従うことだって考えるようになったんだ。

気が付いてみれば、「君が代、日の丸、天皇に反対しなければならない」というのは「聖書の教え」じゃなくて、ぼくに聖書を教えた人たちの「風のように変わりやすい人間の教え」だったんだ。

信じるのは聖書

べレアの町のユダヤ人たちは、パウロの話を聞いたとき、他の町のユダヤ人みたいにパウロに反対しなかったけど、そのままパウロの話を鵜呑みにするのでもなくて、パウロの話が本当かを聖書で確かめた。

兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。

使徒言行録17:10-11(使徒言行録)

聖書に全然書いてないこととか、聖書と逆のこと、つまり神様が言っていないことを「キリストの名によって私たちはー」みたいに教えながら、それが風のように変わりやすいという人がいるから気をつけなきゃいけない。

のぶおリーダーの言葉も信じちゃいけない。のぶおリーダーはふだんから「一冊の本とか、一人の人などとの、新しい出会いが自分をどれだけ変えるか」にワクワクしてるタイプだから気を付けてね。
君が信じるべきなのは「のぶおリーダーの言葉」じゃなくて「聖書の言葉」だ。

愛に根差して真理を語る

 じゃあ、「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教え」にだまされないためにはどうしたらいいかというと、続きにこう書いてある。

…悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。

エフェソの信徒への手紙4:14-15(新共同訳)

愛に根差して、というのは、自分の考えや意見発言が、愛が土台になっているかということ。

たとえば。これはあくまで「たとえ」として極端なことを言うのだけど。
あるクリスチャンたちは「日本は悪い国、私たちクリスチャンは絶対に正しい、日本は裁かれる」ということばかり言ってるとします。
別のクリスチャンたちは、日本を愛して、日本人が救われるように、日本もイエス様を王様とする国になるようにと祈り、日本を祝福しているとします。
どちらのクリスチャンが聖書に近いだろう。どちらがイエス様の言葉に近いだろう。

具体的な例をあげると。
前の前の天皇、昭和天皇が長い間病気と闘った後で亡くなったとき、プロテスタント教会の多くは「天皇の神格化(神様扱い)に反対」とか、「天皇を神様にする儀式をするな!」という声をあげた。
でもそのとき日本のカトリック教会は、次のような言葉を出したんだ。

カトリック信者の皆さん
司教団は、神に召された天皇の永遠の安息を祈り、心から哀悼の意を表します。
(中略)
人の一生の正当な評価は神のみがなさいます。いま私たちは、「過去を振り返ることは将来に対する責任をになうことです」との教皇ヨハネ・パウロ二世のお言葉を肝に銘じ、昭和における過ちを償う心をもって、世界の平和のために貢献する決意を新たにいたしましょう。
これから行われる葬儀・即位の諸行事、それをめぐっての政治、社会の動きの中で、人間を神格化したり、人が作った制度を絶対化したり、特殊な民族主義を普遍化したりすることがないよう注意を払い、究極的にはキリストにおいてこそ全人類の一致と交わりが達成されるという私たちの信仰を再確認いたしましょう。司教団は、これらの諸行事に際して、憲法が保障する政教の分離、信教の自由の原則を厳守するよう、政府に対して要望書を提出します。
昭和天皇のご逝去に際して

昭和天皇ご逝去に際する信徒宛カトリック司教団談話」より抜粋

政教分離や信教の自由ということは後半でふれているけれど、何よりもまず「神に召された天皇の永遠の安息を祈り、心から哀悼の意を表します」としてて。正直「負けた」と思った。いや勝ち負けの問題じゃないんだけど、かなわないって思ったよ。
政教分離や信教の自由のことしか言わないプロテスタント教会と、どちらが聖書の言葉に近いだろうか。どちらがイエス様に近いだろうか。

2022年7月、もと総理大臣だった安倍さんが殺されました。
そうするとプロテスタントの教会や牧師やクリスチャンは「死んだからといって疑惑をゆるすな」とか、「安倍元首相と宗教団体の疑惑が」とか言い出した。一方、カトリック教会はこう↓

 安倍晋三元総理大臣が銃撃され亡くなられたとのニュースを聞き、驚きと共に悲しみが湧き上がっています。安倍元総理大臣の永遠の安息をお祈りいたします。
 いのちに対する暴力を働くことによって、自らの思いを遂げようとすることは、いのちを創造された神への挑戦です。神がいのちを与えられたと信じるキリスト者にとって、いのちはその始まりから終わりまで守られなくてはならない神からの尊厳ある賜物です。
(ちょっと省略)
 多くの人が自由のうちにいのちをより良く生きようとするとき、そこに立場の違いや考えの違い、生きる道の違いがあることは当然です。その違いを、力を持って、ましてや暴力を持って押さえ込むことは、誰にもゆるされません。今回の暴力的犯罪行為の動機はいずれ解明されるのでしょうが、暴力が支配する社会ではなく、互いへの思いやりや支え合いといった神のあわれみの心が支配する社会が実現することを祈り行動したいと思います。
 あらためて、安倍晋三元総理大臣の永遠の安息を心からお祈り申し上げますとともに、ご家族の皆様の上に主からの深い慰めと平安がありますよう、お祈りいたします。

日本カトリック司教協議会 会長談話 安倍晋三元総理大臣の逝去に際して

安倍さんが死んでなお、批判をとおりこして誹謗中傷に全力のプロテスタント教会と、カトリック教会と、どちらが「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長」しているだろうか。

プロテスタントにはプロテスタントの素晴らしいところがあるし、カトリックにはカトリックのすばらしいところがあると思う。ただこの話について言えば、プロテスタントの牧師やクリスチャンや団体から、安倍さんのご家族を思いやる言葉が出なかったことは残念な気がする。

ぼくが子供の頃の教科書に書いてあったことが今の教科書では全然違ってるということはいっぱいあるんだ。学校で「こう教わった」ということについて、「本当かな」「自分でも確かめてみたい」と思った人が、科学を発展させてきた。全員が学校で教わったことを「絶対に間違いのない真実」と思い込んでいたら、科学は発展しなかったんだ。
信仰も同じ。聞いたこと、教わったことを、自分で確かめて考える。そうやってひとりひとりが成長する。成長した一人一人がキリストによって組み合わされ結びあわされて、全体がさらに成長していく。

そのためには、自分で聖書を読んで、自分で神様にたずねながら、自分で考えて、「風のように変わりやすい教え」を見分けないといけない。
大人や先輩に教わることは大事。でも「こう教わった」で終わらないでそこからさらに考え、教わったことを聖書で確かめるのも大事なんだ。

動画版はこちら

この内容は、2022年7月24日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。

動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、このページと動画の内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。

動画版は↓のリンクからごらんいただくことができます。


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