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汚いとは、どういうことか

「汚い」という言葉がある。この「汚い」という、一見単純そうにみえる言葉。しかし、「汚い」という言葉の中には、いくつもの意味がある。
例えば、部屋が散らかっていて、汚い。これは部屋の中の物が整理されていなくて散乱しており、視覚的に汚いというものである。他には、靴が泥まみれになって汚い、というものもある。これは視覚的にもそうであるし、泥という物質が靴に付着して汚いという、物質的に汚いという意味も持つ。「あの人が使う言葉は汚い」なんていう、視覚的にでも物質的にでもない、文体的に汚い(聴覚的にもといってもいいのだろうか)というのもある。
掘り下げていけば、まだまだたくさんの例を挙げれそうだ。

息子は、なかなか寝ようとしない。 眠ることを、全力で拒否する。眠りにつくことが出来る直前まで、めいっぱいに、眠りたいという欲望に抗うのだ。
特に、お昼寝はそうである。家でも外でも、遊んでいる最中に寝落ちするという形で、眠りにつくことが多い。どれだけ床が硬かろうが、お構いなしだ。
家のリビングルームにはフロアカーペットを敷いているので、息子は時々、このカーペットの上で寝落ちする。私は気がついた時、すごくたまにしか掃除をしないので、このカーペットの上はあまり清潔だとは言えない。しかし、寝転んでも問題ないといえるレベルの汚さだ。

自分の住む家の中は、汚くない。その定義は、素足でいても大丈夫だとするものだ。逆にいうと、きれいという訳でもない。
「そんなにきれいではないが、健康に害を及ぼす訳でもないので大丈夫」だ。

では、家の外はどうなのか。息子は疲れてくると、外出先であっても、床で寝転び始める。ヨーロッパの飲食店の床は、汚い。汚いとまでいわなくても、きれいではない。床を清潔に保っているお店は、少ないように感じる。超高級店は行ったことがないので知らないけれど、普通に気軽に入れるお店というのは、そんな感じだ。もちろん、夏場は大きな蝿が容赦なくそこら中を飛び回っている。


このお世辞にもきれいとはいえない床の上で、息子は楽しんで遊ぶ。最初は「汚いよ!」とは言ったが、今ではそんなことに、こちらもすっかり慣れてしまった。床の上でミニカーを並べて遊ぼうが、気にしない。寝転び始めると、それはさすがに止めに入るが。
そして飛行機の中となると、床で遊ぶのはもちろんのこと、遊んでそのまま床の上で寝落ちしてしまうこともしばしばである。飛行機の床はどうなのかというと、飲食店の床と比べると断然にきれいではある。じゃあ寝ころんでもいいのかとなると、あまりよくはない。しかし、飛行機内は身動きが取れないので、仕方がないと思うようにしている。

家の外の、生活圏内の世界。それは「きれいではなかったり汚いと思うこともあるが、健康に害を及ぼす訳でもないので大丈夫」だ。
あまりに汚れていて不快に思うことはあっても、「まあいっか」と流すように心掛けている。
世界のどこかの辺境地にいるわけではないし、それが原因で病気になったり死ぬことはないのだから。

そんなふうに子どもが外で遊んでいる時に、よく思い出す出来事がある。
それは、前回の日本滞在中でのこと。実家近くの大きな自然公園に行った帰りに、新しくできたショッピングモールの中にあるスターバックスに入った。そのスターバックスは本屋に隣接していてゆったりと座れるソファ席も多く、店内はすごく忙しいけれど店員さんの感じもよかった。運良く空いた中央のソファ席を取り、腰を下ろした。ここでも息子は、おやつを食べ終えると、早速という感じでミニカー等で遊び出す。ソファ席のテーブルは、小さい子どもが床に膝を曲げて座ると、テーブルの上のおもちゃが目線と同じ高さになって、遊ぶのにちょうどいいのである。時々ソファーの上にも乗ってくるので、靴を脱がせて遊ばせていた。
私たちが席についてから少しして、横のソファ席に、息子よりも少し年上の男の子を連れた夫婦がやって来た。その夫婦は歳が私より少し下と思われるが、同じ世代であることに間違いはない。男の子は靴を脱がされて夫婦の間にちょこんと座らせられたが、座るのに飽きると、床に降りたがった。床に降りたがる男の子を、親は必死で止めようとする。「〇〇ちゃん、汚いよ!汚いからだめ!」「ほらほら、ママのお膝の上に座って」というが、男の子は聞かない。そして最終的に、お母さんがお菓子をいっぱい鞄の中から出して「ほらほらお菓子、お菓子食べよう。ね?」といい、男の子はお菓子に負けて、親の言いなりにソファの上に留まった。その一連の出来事が起こっている目の前で、靴を脱いで床の上に立ち、ミニカーをぶんぶんいわせている息子。向こうの親はこちらを気にしたかどうかはわからないが、男の子は少なくとも私たちの方に視線を向けて気にしていた。
その男の子の親は、床の上はまるで大量のばい菌で汚染されているかのような振る舞いだった。

そんなにこの床は、汚いのだろうか?
私からしてみると、ここのスターバックスの床なんて、めちゃくちゃきれいだと思うんだけれど…。まあ私の基準はインドやヨーロッパとかを含めてになるので、同じ感覚にはならないとしてそれを考慮しても、そんなに汚い汚いといって片付けていいものかと。
確かに、靴下で床(フロアカーペットだった)を歩いたら、黒く汚れる。でも汚れた靴下は洗えば済む話で、それとも、汚れた靴下を洗濯物として洗うのが嫌なのだろうか。
手だって店を出たら洗面所に行って洗えばいいし、家に帰ったらお風呂に入れる。
そんなことの問題よりも、親が子どもの行動を親の都合で制限してしまうことが、深刻だと思う。

確かに、床の上はきれいではない。でもいつも汚い汚いといってしまうと、子どもは汚いという観念にこの先縛られるようになって、世界が狭まっていくことだろう。自然、山や川や海だって、土で服も体も汚れる。でもそれは本当の意味の汚れではない。ただ土がついたという事実を、私たちは汚れたと表現する。ただ、何となくと見た目で、忌み嫌うのだ。
そんなふうに、世界が狭まり遊びの範囲が決められてしまうのは、悲しい。
男の子が、いわれるがままにソファの上におとなしく座り、ただお菓子を食べている。そこに、子どもの感情はなかった。

汚さの観念は、文化の違いや個人で大きく違ってくる。それは、仕方がないと思う。しかし、汚いなと思った時、一歩下がって冷静になって考えてみてほしい。それは本当に「汚い」のだろうか?
触れたが最後、取り返しのつかないようなものなのだろうか?
この「汚い」というこの言葉を、私は普段の生活で使いすぎてしまわないように気をつけている。
例えば、レストランの床がジュースでベタベタになっていたとする。そこで私は床がジュースで汚いとは言わずに、床のベタベタが肌についたら気持ちよくないよね、といいたい。

「汚いから、だめ」

私はこの言葉を、極力使いたくない。判断力がない子どもに対して、大人の一方的な感情を押し付けてしまわないようにと思っている。
自分の周囲は狭いけれど、世界は広い。汚さの観念だって、いろいろあって当然だ。何がどう汚いのか、一歩下がって考えてから、言葉に出したいと思う。

少し前に、息子がスーパーの売り場の床で寝落ちした時は、汚いと感じるよりも先に、ある意味でどこでも寝ることができて素晴らしいなと思った。


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