無痛の傷穴

「ぼく、苦しいって、言っていいんですよね?」

ある男性相談者の一言に、すべての問題が詰まっていた。

最初の一言を、読者の皆さんはどう受け取られたであろうか。わたしはこう受け取った。つまり、彼は自死を選ぼうとするほどに苦しんでいる、その激痛にすら気づいていなかったと。

話が逸れるが ─── しかしわたしにとっては重要な繋がりを持っているのだが ─── わたしは今、チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房)を読んでいる。本書には韓国に限らず、この日本でもあり得る女性の沈黙の苦しみ、悲しみや怒りが言語化されている。主人公のキム・ジヨンはさまざまな場面で「女だから当然」という不条理にぶつかり、瞬時の感情が沸騰するのだが、それを言葉にはできない。抗議をすれば「うるさい女」という烙印を押され孤立してしまうからだ。また彼女自身、それが女性にのみ課せられる苦痛であると気がつかないこともあった。自分が女性であるというだけで苦しめられていること。しかしその苦しみを表現する選択肢があることにさえ気づかないという、さらなる苦しみ。さらには、そもそもその苦しみが苦しみであるとすら認知できない苦しみ...キム・ジヨンは本人も無自覚のうちに苦痛を募らせ、ついに精神を病むに至る。

『82年生まれ、キム・ジヨン』では、女性が言葉にしようとさえ思わないほど内面化し無自覚となり、あるいは気づいて言葉にしようとは思っても、しょせん無駄だと諦める苦しみが、簡潔な言葉で表現されている。多くの女性は「そう、わたしがうまく言えなかったのはこれだ!」と思うだろう。では、男性の場合に、そのような役割を果たす文学はあるだろうか。あるかもしれないが、わたしは文学に疎いゆえ、ただちにそれを思い浮かべることが出来ない。

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