欠けた茶碗

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。  創世記 2:7

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。  コリントの信徒への手紙二 4:7
                       引用はいずれも新共同訳

妻の病気をはじめ、地方での牧師生活にあらゆる意味で挫折し、失意のうちに郷里へと帰省したわたしは、映画『ヤコブへの手紙』を観た。貯金もほとんどなく、無職で、未来がまったく見えないわたしにとって(結果的には、であるが)この映画を観たことははたんなる映画鑑賞ではなかった。
フィンランドの片田舎、訪れる者など誰もいない教会。それでもこの教会を守り続ける盲目の老牧師ヤコブ。そして彼への手紙を代読する、服役を終えた女性レイラ。映画は二人の出会いと別れを描いている。時代に置き去りにされ、忘れ去られつつある老牧師の姿に、わたしは自らを見て哀しくなったものだ。

忘れられないシーンがある。来訪者などほぼいない教会ではあったが、ヤコブは来客用のティーセットを大切にしている。自身もその一脚でお茶を飲む。映画の終盤、白いティーカップがテーブルから床へ落下し、砕け散る。すなわち、ヤコブの寿命が尽きたことを示唆する場面である。

ヤコブと共に時を刻み、その人生を共に歩んできた、彼の生活そのものが象徴されたティーカップである。ティーカップすなわち土の器は、ヤコブ自身である。同じ製品なら、もしかすると誰か他の人も所有しているかもしれない。だが、この傷、この染み、この使用感を持った器は彼だけのものだ。それが今や割れた。砕け散った。もう元通りには戻らない。盲目の老牧師ヤコブの死を表すのに、これ以上聖書的な表現はあり得ない。

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