狭いことは悪いことなのか

仏教系の新宗教から「キリスト教はここが誤っています。我々の教えこそ唯一の救いです」という趣旨の文章をいただくことがある。それは教会のドアに挟まれていることもあれば、郵送されてくることもあり、訪問者によって対面で渡されることもある。対面の場合、わたしを牧師だと知りながら「キリスト教は邪宗門です」と、丁寧な口調でおっしゃるのである。その度胸には驚かされる。

その一方で、アメリカかどこかのキリスト教団体が、台湾などを経て文書を送ってくることもある。「コロナウイルスは神の裁きです」といった、彼らにとっての預言というやつである。内容はともかく、趣旨は上記と変わらない。文体も思わず噴き出すほど同じである。ようは、他宗教やこの俗世間のさまざまなイデオロギーはすべて誤っているのであり、(自分たちが信じているとおりの)キリスト教こそが唯一の救いに至る、正しい教えであるというものだ。

わたしは、若かったころはこうした伝道姿勢が大嫌いであった。なんと排他的で視野が狭いのかと。愚かのきわみであると。しかし、最近思うようになった。逆に、寛容をとことん突き詰めたら、そもそも宗教である必要はあるのだろうかと。「どんな教えであっても、どんな生き方であっても、神さまは祝福しておられるのだ」と、わたし個人が納得し、かつ人に語ったとして、それは「人それぞれなのだから、多様性を認めあって生きねばならない」という世俗的倫理観と何が違うのか。

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