じゃがいも

このマガジンでも何度か言及したことであるが、わたしは以前の任地で、さまざまな生き物と共に暮らしていた。牧師館が旧かったので、扉や窓の隙間から、アカテガニやフナムシが自由に出入りしていたし、書斎の所定の場所、所定の時間には必ずアシダカグモが姿を現した。ビーズのように光る八つの眼が、わたしを見つめているように感じられたものである。わたしもクモを見つめ、「こんばんは」と挨拶して仕事をした。だいぶ寒くなったある日、脚が五本ほどに減ってしまったクモが、ゆっくり、ゆっくりと壁を歩き、やがて家具の隙間に姿を消した。「さようなら」。わたしは友との別れを感じた。

クモと向きあっていると、「我思う、ゆえに我在り」という感覚は減退していった。我が思おうが思わなかろうが、世界は存続しており、その世界のごく一部としての、この身体もさしあたり維持されている。「わたしはこう思う、わたしはこれを主張したい」と考えているとき、体感として、世界の中心あるいは主人公としてのわたしを感じている。しかし、クモから見つめられていると感じながらクモを見つめ返すとき、わたしは世界の一部であっても、中心や主役ではない。

よく言われる「他者」感覚もない。クモは話し相手であり、わたしの一部でもある。いや、わたしがクモの一部でもある。たしかに、わたしはわたしという自我の外に出ることはできない。できないのだが、自我がすべてではないということは、よくよく分かったのである。これはわたしを非常に楽にしてくれる感覚だった。

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