理由の理由はあるのか

共同幻想とか想像の共同体といった言葉がある。たとえば国家とか民族とかいうのは、わたしが日本全体をいっきに見渡したりすることはできない以上、想像でとらえているものである。そういう意味で、それは幻想であり、かつ、いちいち「あなたも日本人ですよね」と尋ねることもなく、なんとなく相手もわたしと日本語で通じるだろうという意味で、共同の想像あるいは幻想だということである。

想像や幻想であるからといって、それはたんなる概念にすぎないのでもない。たしかにわたしは日本全体をいっきに見渡すことなどできないし、「これが日本というモノです」と日本なる何ものかを誰にも分かるかたちで見せることもできない。だが、「わたしは日本に住んでいる」とか「わたしは日本人である」とかいうことは、たんなる概念をこえて、ありありとわたしの体感にあるものである。だからたとえば、わたしは、複数の国にルーツを持つ人の思想や行動に共感することはあっても、「複数の国をルーツに持つ」体感それ自体を体験することはできない。もしもそれらがたんなる概念にすぎないのであれば、相互に置き換えて想像してみることが可能であろう。

個人が「これこそはわたしの考え方である」と感じていること。その考え方の起源を、どこまで遡ることができるのだろうか。たとえばキリスト教の界隈では、クリスチャンの家庭で生まれ自分も信徒になった人と、親族一同のなかで自分だけがクリスチャンになった人とが、対立的に語られることがある。かたや物心つくまえからの信徒、かたや自分で決意して入信した信徒というように。

だがじっさいには、そんなに単純に分けられるものではない。わたし自身、高校生のときに「決意して」信仰の道に入った。わたしの家族は誰もクリスチャンではなかった。だが、わたしが初めてキリスト教にふれたのは、幼い頃に通った教会付属の幼稚園においてである。兄や姉も通っていた幼稚園なので、末っ子であるわたしは、生まれたときからキリスト教的な雰囲気のなかにいたとも言える。つまりわたしにも、物心つくまえからの信徒に似た要素があるということである。

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