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生きること、死ぬこと、そのむこう

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牧師として、人の生死や生きづらさの問題について、できるだけ無宗教の人とも分かちあえるようなエッセーを書いています。一度ご購入頂きますと、過去の記事、今後更新される記事の全てをご覧…
このマガジンの記事を踏み台に、「そういえば、生きてるってなんだろう?」と考えを深めて頂ければ幸いで…
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2019年5月の記事一覧

わたしは主体的ではありません

来会者の方から、キリスト教についてさまざまな質問を受ける。わたしは質問を受けてから、自分…

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個性とは粒の寂しさである

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろい…

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ファンであることと信仰

わたしは、年の離れた姉や兄がビートルズを聴いていたこと、おぼろげにではあるがジョン・レノ…

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自分語り──その可塑性

最近、2pacというアーティストのラップを聴くようになった。正直、ラップとヒップホップの言葉…

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相手への不快感をどうするか

人は誰とでも仲良くなれるわけではない。もちろん、誰とでも(ほとんどの確率で)仲良くなれる…

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私と公とのあいだが欲しい

初任地で最初のうち、長屋の六畳二間に住んでいた。汲み取り便所、土壁は柱から微妙にズレて、…

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これだと思うとき

信仰するというときに、大きく言って二つのありようがあると思う。一つは独り穴を掘り進めるように、信仰の道を探求する生き方。もう一つは、誰かとの交流のなかで信仰を深めてゆく方法である。もちろん両者は完全に二つに割れているというのではない。孤高に信仰を探求する人が、しばしば他の誰かにとって道しるべになることがある。逆に、孤独に探求していた人が、思いがけず他者の信仰に胸打たれることもある。 ところで、わたしはその二つのうちの、「誰かとの交流」のほうにアクセントを置いて牧師の仕事をし

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