詩が長すぎる

詩が長すぎる、と言われる。主に自分から。
改めて読み直す、と確かに長すぎる。
この文の塊まるごといらないよね、とか、でもこの塊がないと意味が通じないのでは?とか、ウンウン唸っている。だが、本心は「頑張って良さげな言葉捻り出したんだから、書かないと勿体無い」という気持ちが強い。
言葉を捨てられないのである。
頑張って捻り出した言葉を捨てるなんてとんでもない。愛着が湧いてしまっている。
愛着とは完全に独りよがりな感情だ。言葉と自分との関係に執着してるとも言える。
腹を痛めた我が子というが、押し付けられた愛情は重荷にしかならないだろう。
詩が、私を重荷に感じている。
お弁当と水筒だけでいい、と言われたリュックに、あれもこれも、ハンカチ、ティッシュ、ヘルメット、替えの靴下、とじゃんじゃん入れられ、はち切れんばかり。ついにはリュックに入りきらないと、肩掛けバッグ、手提げ袋、ズボンのポケットに電池も10本、単一から単四まで。
詩に感情はもちろん無いが、私が詩だったらと思うと自分を恨みたくもなる。
私が私の詩に恨まれている。
私の詩が私の過干渉に傷ついている。
傷はトラウマになっている。
私の詩がトラウマを抱え引きこもっている。
私がご飯を持っていくと「うるせえ来んな」と怒鳴られる。
そのうち私も詩に対しどのように接していいものか分からなくなり、知り合いに相談する。
「いい人がいるから紹介してあげる」と言われ、ついて行くと、あるアパートの一室。そこには笑顔で迎えてくれる人がいる。しどろもどろになりながらも悩みを打ち明けるうち、ああ、私は受け入れられている、という気持ちが湧いてきました。毎週土曜日に行われる集会に参加し、みなさんと歌を歌ったり、先生のお話を拝聴したり。いまは充実した毎日を送っております。

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