連続夢

その夢は全く初めて見た夢なのだが、以前みた夢と舞台が同じようだった。以前見たとき、その舞台となっている街は至るところ工事中で、夜が明ける気配がなかった。さらにその1年ほど前だろうか、同じ街が夢に現れたことがある。その時ぼくは生まれたばかりの仔猫を胸に抱えるようにして、アスファルトが掘り返された、工事中の暗い道路を渡っていった。夢にも連続ドラマならぬ連続夢があるのだろうか…終わりのない工事がいつまでも続く街。工事現場の夜間照明が煌々と街じゅうを明るく照らし、クレーンが瓦礫を掬い上げ、ドリルがコンクリートを穿つ騒音が夜気を震わせて止まない。駅もビルも道路も、すべてを新しく作り変えようともがいている夜の街…

その夢では、街はすでに夕暮れ時でぼくは勤め先からの帰り、家の最寄駅にできた新しい駅舎に降り立った。ようやく工事が終わり、ついに新しい駅舎ができたのだ。改札を抜けると真新しいテラスがあり、そこに小さな立ち飲み屋ができていた。立ち飲み屋というよりはカフェのような小綺麗な内装で、年若い娘さんが店内を掃除している。ぼくが生ビールを頼むと、娘さんが何やらつまみをカウンターに出しながら、そのつまみの解説を楽しそうにし始めた。いい店だな、毎晩立ち寄って一杯やることにしよう、とぼくは思う。夕暮れ時の静かな空気が、気分を解き放つようだった。

さて店を出て階段を降りながら、その階段がどういうわけか年季の入った木板でできているのにぼくは気づく。どう見ても新しい駅舎には相応しくない。一昔前に田舎に見られた、ヤニ臭い国鉄の駅、といった雰囲気ではないか。 新しい駅舎と見えたのは、完全にとり壊す前に新しく化粧し直しただけの張りぼてに過ぎないのではないか。

この街はきっとまだ工事が終わっていないに違いない。仮の駅舎、仮の日常がわずかの間、夢の中のぼくの心情を浮き立たせてくれたが、新しい街のために一旦は破壊されなければならない古い建物の一部が、まだまだ残っている…その木板の階段にぼくはひどい不快感を覚えた。

場面は転換する。夢の場面転換において、前後になんの脈絡もないなどということはあり得ない。前の場面と意味的な類比をなしているか、像的な相似があるか、そう考えてみる必要があるだろう。

その新しい場面ではぼくは高校生の頃に戻っており、新学期の教室の中にいる。黒板に席順が書いてあったが、自分の名前がない。しかし、ぼくは、疎外感や寂しさを感じなかった。皆が、なんでだ、なんで彼の名前を書き洩らしたんだ?と教師に抗議してくれたからだ。そのクラスには一体感があった。

さてその学校で新学期早々にあるのが避難訓練だが、教師がそのためにベランダで何か準備をしていた。その最中に突然教師がベランダから飛び降りた。驚く生徒たち。慌てて皆が窓辺に殺到する。教師は何事もなかったように廊下側の入り口から入ってきた。新しいマジックだ、と教師はニヤニヤして言った。生徒たちはホッとすると同時に大いに受ける。ユーモアに満ちた、とてもいい教師、とてもいいクラスだ。

しかし、その学校の校舎はやたらと古い。外壁は黒ずみ、ひび割れ、水垢が目立つ。まるで憂鬱な曇天のような校舎…

はじめの夢における新しい駅舎、真新しい立ち飲み屋と、場面転換した後の新学期の教室、一体感のあるクラスは同じ位相にある。そしてはじめの夢における年季の入った木板の階段と、場面転換した後の古めかしい校舎もまた同じ位相にある。

前後して現れたこの二つの夢は、ストーリーがピタリと重なり合う。どちらの夢も具象的イメージを少しずつ剥いでいけは、同じ上昇と下降の純粋形態に還元できる。この純粋形態が、二つのストーリーを相前後して展開させたわけだが、 それはどこからやってきたのだろう。そのことを理解するためにはこの純粋形態にひたすら沈潜することが必要だろう。

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