夢の背後
まったく気にも止めていなかった前日の出来事が夢になって現れたことに驚いた。なぜ私的な関わりのほとんどないような人物が夢というプライベート空間で主要なプレーヤーになっているのか。またその夢の舞台は、これまたプライベートな場所だった。なぜその人物が、自分のプライベートな空間に押し入ってくるのか、さっぱりわからなかった。
A氏が我が自宅の玄関扉の向こう側で何か作業をしている。玄関扉の中央は透明ガラスになっていて外の様子がわかるようになっている。ぼくは玄関の灯りを点けようとスイッチを入れるが玄関内の灯りは点かない。玄関の外側にある外灯を点けようと、何度かスイッチをカチカチとやっているうちにかろうじて点いた。
前日、実際にあったことを想起してみる。
仕事の途中、ある用件でA氏に話しかけた…事実としては、ただそれだけのことに過ぎない。A氏が夢に出たとなれば、夢の原因はこの出来事以外に考えられない。
一見してこの夢に特に意味があるようには思えない。ではなぜ舞台が自宅なのだろう…照明を点けるためにスィッチをカチカチ鳴らしているのはどういわけなのか…それよりもなぜ我がプライベート空間で、関係性の薄いA氏が主要プレイヤーになっているのか…
今度はその前日の出来事に伴う感情や思いも再現してみる。
ぼくはある用件で、A氏に話しかけなければならなかった。A氏とは、これまで何度も様々な場面で感情的で不毛な議論を交わしてきた。因縁の間柄である。年は自分よりだいぶ彼の方が上だが、社内の立場は自分の方が上である、という関係性が双方の感情を複雑化しているように思える。ぼくらの間に親密感はあまりない。だから、些細なことであったとしても彼に話しかける時は、常に緊張を強いられる。この時も特になんということもない用件だったが、ぼくは彼の表情を読みながら、外見上だけ穏やかな態度を保ちつつ、内面では緊張を絶やさないで、彼と会話した…
ぼくは前日の出来事に伴うこの感情や思いに耳を傾ける。ただひたすらに、耳を傾けて待つ。それはいつでもどこでもかまわない。朝の通勤電車の中でつり革につかまりながら、あるいはぼんやりコーヒーを飲みながら、でなければ、坂道をゆっくりと登りながら。意味が見出せない対象に耳を傾け続けることは時に困難を極める。心は常に快楽原則に従うものだし、つまらないことに長い間関わり合っているわけにはいかない。知らぬ間に思考は楽しいことへ、目の前の興味のあるものへと移っていく。
しかし、ぼくは何度でも夢の形象へ戻っていく。傾聴し、待つことが、実のところ夢分析の最も基本的な態度なのである。象徴解釈や事例研究は、この基本に比べれば副次的なものである。
カウンセリングや精神療法において大事なのは様々な〇〇技法だったり、〇〇療法だったり、ではなく、実のところ、治療者やカウンセラーの共感能力、すなわち傾聴力である、と聞いたことがある。どんな技法、どんな療法であろうが、治療者、カウンセラーの共感能力、傾聴力にまさるものは何もない、という。
夢分析もこれと同じで、ひたすら傾聴し、そこから立ち現れるさまざまな連想に目を凝らすとき、次のようなフロイトの言葉を実感する至福の瞬間が到来するのである。
夢の仕事は、目ざめているときの思考とはまるで別物である。決して、覚醒時の思考よりも散漫なわけではなく、正確さを欠くわけでも、忘れっぽかったり、不完全なわけでもない。
(『夢判断』大平健訳)
その瞬間は突然やってくる。ついさっきまで無意味であるとしか思えなかった夢のディテールが、突如として意味をもって目の前に高速展開する。
もし、ぼくがA氏と打ち解けた仲だったら、この夢における彼は、自宅の玄関扉の“内側”で作業をすることになったはずである。そこでは明るい玄関内の照明が灯っていたはずである。
しかし夢は、彼とぼくがそれほど打ち解けた仲ではないことを知っていた。つまり、A氏はぼくが家の内側に招き入れるような人物ではない。だから、夢は彼を自宅の玄関扉の“外側”に追いやったのである。しかも、玄関内の照明は、ぼくの緊張した心の状態を反映して灯ることはなかった。決して明るい気持ちで彼と対話することなどできないのだから、当然夢の中でも、灯らない照明としてそれを反映することになった。玄関の“内側”とは、我が心の“内側”だったのだ。しかし、表面上は穏やかな雰囲気を演出していた現実のぼくの振る舞いを反映して、玄関扉の“外側”の照明だけはかろうじて夢は灯してくれた、というわけである。表面上の穏やかさの象徴としての外灯の明かり。
この夢は、前日の出来事とともにその出来事に伴う感情や思いを、あまりにも忠実に形象化、映像化している。玄関扉の内側と外側という位置関係、玄関扉の内側の照明と外灯の明暗による象徴化は、私とA氏の現実の関係性を如実に物語っている。
夢は、もとの観念の抽象的な表現を具体的絵画的表現へ置き換える、という。フロイトはそれを、神話に似た蒼古的退行的表現と言い(『精神分析入門』)、吉本隆明氏は、時間性の空間的な構造(擬似受容)への転化、と説明している。(『心的現象論序説』)
その置き換え、転化の際に働く仕組みにはどんな秘密が隠されているのか。
ぼくは、今回の夢によって改めて、偉大な芸術家に対するように、夢の表現力に畏怖の念を抱いた。例えば自分が映画を撮ることになったとして、この夢のように人と人との関係性を、人物と物を絶妙に配置することで表現できるか甚だ疑問である。また照明の明暗をこれほど巧みに利用することを思いつくかどうか。
そんなことなできるのは、夢の文法、夢のモンタージュを自覚的に映画編集に取り入れたタルコフスキーくらいのものではないか。
今やぼくにとって夢を開示する無意識の背後には、未知の知性、あるいは沈黙する存在者がいるのではないか、そんな思いさえ現実性を帯びるまでになっている。実際、このような巧みな表現を、無意識とは言え、自分が成し得るとは思えない。
以前ぼくは、その未知の存在者を漠然と「夢の傀儡師」などと名付けたことがあったが、しかし、その時はまだ、その正体は目覚めた意識による概念的な思考であるに過ぎない、と思っていた。今では目覚めた意識による概念的思考は、夢を操る傀儡師ではなく、夢の素材に過ぎないとわかっている。傀儡師は、さらにその背後にあって、概念的思考を解体して、空間的、状況的な形象継起へと転換する。それは常に沈黙している謎の機構、謎の仕組みであり、謎の表現技術者である。
ちなみに、この畏怖の感情は、いわゆる「無意識からのメッセージ」といった空想的な神託を想定していない。ぼくらが畏怖の念に打たれるのは、日々の現実体験から沈殿した概念パターンあるいは心理パターンを空間的形象継起に変換する無意識的夢機構の芸術的手腕に対してなのである。
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