夢の中の「第二の僕」

ぼくは眠りの中で深い眠りについている…その夢の中で、ぼくは眠りから覚めて周囲を見渡す。そこにはなぜか義理の父親がいて、お前は夜中に起き上がってさっきまで街のあちこちを歩き回っていた、などと言う。ぼくはすかさずそれは嘘だ、と思う。ぼくは今の今までぐっすり眠っていたわけだし、眠ったままどうやって街中を歩きまわればいいと言うのだ、と思う…しかし、ぼくの脳裏には見覚えのない繁華街のイルミネーションや坂の街のあちこちに見られる石階段の光景がリアリティをもって明滅しているのだった…場面が展開する。ぼくはまたもや夢の中で深い眠りについている。その眠りから目覚めると、よく見知った女の子が目の前で笑っているのに気づく。その知り合いだという女性がもう一人、やはり同じように微笑んでいる。彼女たちが言うには、ぼくは眠っている間、たいそううなされていて、苦しそうにしていた、と言う。彼女たちはぼくを起こそうがどうか迷ったそうだ。それほど尋常ならざるうなされようだったらしい。ぼくはそんなバカな、と思う。自分が知らぬ自分を他人にじっくり観察されていたというのか…ぼくは羞恥を持て余し、どうすればいいかわからないほどだった。

自分は自分のことを全て把握しているつもりでいるというのに、実は無意識の深淵には、見知らぬ自分がいて、知らぬ間にやりたい放題をやっているのではないか、あるいは、知らぬ間にあるまじき別の顔を晒しているのではないか…ぼくはこの夢の中で、まるで二重人格や多重人格に悩まされている解離障害患者のような役回りを振られている。

ここで芥川龍之介の『歯車』に充満している不気味な世界を想起せずにいられようか。主人公は、ある時、作品執筆のために滞在しているホテルの部屋の中で鏡に写った自分の顔を眺めながら「第二の僕」のことを思い出す。かつてある時、知人から「先だってはついご挨拶もしませんで」と言われ、何を言っているのかわからず、主人公は当惑してしまう。劇場の廊下でその知人と会ったらしいのだが、当人には全く覚えがないのだった。また別の知人は、銀座の煙草屋で「第二の僕」を見かけたと言う。

『歯車』における「第二の僕」とは、主人公の交代人格であり、主人公が知らぬ間に、その解離した交代人格が街中をうろつきまわっていたのだ、というのが合理的な解釈である。

ところで夢は往々にして、ひと晩に同じ主題の物語をオムニバス形式の映画のように別々の夢として反復することがある。この夢の場合はまさにその反復する夢、言ってみれば「オムニバス夢」に相当すると言える。

場面は二つに分かれるが、後半の場面において、本来の自分が眠っている間に、もう一人の自分がうなされていて、それを他人に観察されている、見られている、という点は、前半の、主人格が感知し得ない交代人格が街中をうろつき、他人に見られている、という事態と相似的である。どちらも自分の意識が及ばないもう一人の自分が、他者の目にさらされている、という共通性がある。後半の夢では、目覚めた自分と眠っている間の無意識的なもう一人の自分の分離がそれほど深刻ではなく、眠っている間に自分では気づかないが、ひどい歯ぎしりをしていたとか、イビキがうるさかったとかいうレベルに過ぎないと言えるだろう。

前半の夢においては、目覚めた自分と眠っている間のもう一人の自分との解離が甚だしく、主人格の知らぬ間に、交代人格が身体を支配し、街に繰り出して彷徨しているらしいのである。

程度の差こそあれ、この二つの夢は同じ主題を反復していると言える。

日常生活の他人との会話において、何度も同じ話を繰り返す人がいるが、オムニバス夢は、それと同じ表出衝動に駆られているとみなすことができるだろう。自分のなかにある淀みのようなものをとにかく得心のいくまで吐き出したくて、つい同じ話を繰り返してしまうという経験は誰にでもあるのではないか。

ではこの夢において、ぼくが得心のいくまで吐き出したかった淀みとは何なのだろう。

ここ数日の出来事とそれに喚起された感覚印象や感情、思考の流れを仔細に想起するならば、なぜこんな夢を見たのか、は明瞭に理解できる。しかし、そんな日常生活のディテールとこの夢の細部を関連づけて他者にわかるように意味の構成体を構築するには、長大な物語を背景に据えなければならないだろうし、そのための時間と体力がぼくには欠けている。
ここでは、ただこの夢が、求心的で観念的な太字の概念や脆弱な意識による論理武装が破綻した隙間に溢れ出た身体性をイメージ転換したものだ、と言えるだけである。
#夢分析

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