夢の中の死者の研究

ぼくは臨終の床にあった。いや、すでに死んでいるのだが、魂は何度も身体に戻ってきてしまう。そして、息絶えた身体に取り憑いて動き回っている。その狭い畳の部屋は、背の低い古箪笥が壁際に置かれている。田舎の旧家の一室のようである。すでに死んでいるぼくの身体はその部屋をゾンビのように歩き回っているが、青黒く変色し、明らかに硬化しつつある。ぼくは自分がすでに死んいでることを自覚している。家族はなかなか死んでくれないぼくに困り果てている。

近頃よく思い出すのは「夢は不合理でも無意味でもない」というフロイトの言葉である。今朝みたこの一見荒唐無稽な「ゾンビ夢」を前にしても、やはりフロイトの言葉は間違っていないと思うのである。

ところで、かつて、自分の生理的生命感覚の土気色の古層が、街や建築の情景の一部として露出した夢を何度も見たことがある。それらの夢のなかでは身体は風景であり、風景は身体になる。身体というのは、時に上昇したり下降したり、あるいは伸長したり収縮したり、過酷な環境下では凍結したり沈滞したりする見えざる身体である…その身体は夢の中で風景の鏡に映し出され、夢の中の主人公は自分の身体感覚を環境世界の形象として視覚的に感受したりする。…今回の「ゾンビ夢」は、それらの過去の夢と全く違うように見えるが、実のところ同じ構造を反復しようとしているのである…例えば、過去のこんな夢と比較してみたくなる…

〈その夢の中でぼくは家路を急いでいた。その夢の街は見たところ郊外の住宅街といった風情なのだが、所々に古い農家の木造家屋の痕跡が残っている。華やかな都会で突然古めかしい寺院の門構えに遭遇するように、家々の塀と塀の間に昔の納屋のような印象の建物の痕跡が見られたり、小洒落た煉瓦造りの家の隣に蔵が建っていたり…もともとの農村地帯が、近くに鉄道駅ができたことで、郊外の住宅街に変わったといったところだろう。だが開発はひどく中途半端で、破壊されるべき古い時代の遺物があちこちに散見される。そこには、新しい街に古い要素を生かして取り込んでいるといった意図は感じられない。まるで住宅地の所々に古い地層が露出しているといった風だ。徹底性が足りない…〉

あるいはこんな夢…

〈その夢では、街はすでに夕暮れ時でぼくは勤め先からの帰り、家の最寄駅にできた新しい駅舎に降り立った。ようやく工事が終わり、ついに新しい駅舎ができたのだ。改札を抜けると真新しいテラスがあり、そこに小さな立ち飲み屋ができていた。立ち飲み屋というよりはカフェのような小綺麗な内装で、年若い娘さんが店内を掃除している。ぼくが生ビールを頼むと、娘さんが何やらつまみをカウンターに出しながら、そのつまみの解説を楽しそうにし始めた。いい店だな、毎晩立ち寄って一杯やることにしよう、とぼくは思う。夕暮れ時の静かな空気が、気分を解き放つようだった。
さて店を出て階段を降りながら、その階段がどういうわけか年季の入った木板でできているのにぼくは気づいた。どう見ても新しい駅舎には相応しくない。一昔前に田舎に見られた、ヤニ臭い国鉄の駅、といった風情ではないか。 新しい駅舎と見えたのは、実のところ完全にとり壊す前に新しく化粧し直しただけの張りぼてに過ぎないのではないか。
この街はきっとまだ工事が終わっていないに違いない。仮の駅舎、仮の日常がわずかの間、夢の中のぼくの心情を浮き立たせてくれたが、新しい街のために一旦は破壊されなければならない古い建物の一部が、まだまだ残っているのだ。〉

これとおなじ日に見たオムニバス夢…

〈その夢ではぼくは高校生の頃に戻っており、新学期の教室の中にいる。黒板に席順が書いてあったが、自分の名前がない。しかし、ぼくは、疎外感や寂しさを感じなかった。皆が、なんでだ、なんで彼の名前を書き洩らしたんだ?と教師に抗議してくれたからだ。そのクラスには一体感があった。
さてその学校で新学期早々にあるのが避難訓練だが、教師がそのためにベランダで何か準備をしていた。その最中に突然教師がベランダから飛び降りた。驚く生徒たち。慌てて皆が窓辺に殺到する。教師は何事もなかったように廊下側の入り口から入ってきた。新しいマジックだ、と教師はニヤニヤして言った。生徒たちはホッとすると同時に大いに受ける。ユーモアに満ちた、とてもいい教師、とてもいいクラスだ。
しかし、その学校の校舎はやたらと古い。外壁は黒ずみ、ひび割れ、水垢が目立つ。まるで憂鬱な曇天のような校舎…〉

また、先日はこんな夢を見た…

〈その夢の中に登場したNさんは髪が長く、知的で小柄な女性だった。彼女は階段で列を作る人の中にいる。講演会があって行列の人たちはその開場を待っているのだった。ぼくはNさんの前に並んでいて、後ろにいるNさんを振り返る。こんにちは、と会釈をして握手する。
そのあとに続くのは、昔よく行った書店の光景、そしてなぜか、ちくま文庫の装丁。
場面は転換する。生まれ故郷の実家の近くにある垢抜けたデザインの家。ぼくは、この家に住んでいる人の名前を全く違うように覚えていた、と誰かに言う。きっと近くの農家の次男、三男が分家した家なのだろうと思っていたのだが、この土地にはない苗字の表札がかかっていたのだった。もともとこの土地にいた人ではないようだ。その家の幾何学的な外観は、まだまだ田畑が残る周囲からは隔絶した雰囲気があった。
そのあとに廃屋となった古い青瓦屋根の家の形象が続く。平屋の貧しい印象の外観…あちこちが痩せこけた老人のように朽ちて、傾きかけている。自分が生まれた町でよく見かけた古い社宅の光景か…〉

これらの夢では、上昇する観念性から置き去りにされたような、下降し沈滞する生理的生命感覚の古層が街の景観の一部として露出するという構図が、繰り返されている。

上昇する観念性は、何か新しかったり、楽しかったり、明るかったり、知的な雰囲気で彩られていたりする形象に置換されている。それは、さかんに街を工事したり、新しい駅舎を建てたり、一体感のある集団性の形象を仮構しようとしたりしている。また知的な女性を登場させたり、書物や垢抜けた建築物のイメージ群を夢に挿入したりしている。知的でデザインに優れた意匠により、人々が一体となりながらも自由な、ある一つの街を再構築しようとしている、と言っていい。

しかし、下降し沈滞する生理的生命感覚の古層を巻き込んで上昇していくことができず、それらを置き去りにして、街角や建築の一部として露出させてしまう。上昇する観念の意志力、加工力は沈滞する生理的生命感覚の古層までは届かないのである。

今回のゾンビ夢は、これらの夢と同型の構造を反復しようとしていると見ることができると思う。しかしながら、下降し沈滞する生理的生命感覚の古層が死体としてもろに露出している点がこれまでと異なる。もはや上昇する観念性は、街を工事したり、再構築しようとしたりはせずに、悪あがきして死体に取り憑くだけの魂に頽落しているように見える。そして下降し沈滞する生理的生命感覚の古層は、街の景観や建物に象徴されたり、投影されたりすることもなく、文字通り死体となって夢に出現している。そしてかつての夢同様死にきれず、よって生まれ変わることも叶わず、周囲の家族に迷惑をかけるような事態になっている。

上昇する観念性はもはや無力となり、街を再構築するための努力を放棄してしまったのだろうか。たしかにそのようだ。しかし、それが放棄したのは沈滞する生理的生命感覚の古層を置き去りにした再構築だ。沈滞する生理的生命感覚の古層が死にきり、そして死にきることで生まれ変わろうとする時、観念は上昇のための推進力を身体に譲ることだろう。

今後この、何度も反復する構造的同型性をもった夢が、どのように変化し、どう展開するのかが、今からとても楽しみだ。まるで連続ドラマの続きが待ちきれない時のように。

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