夢の哲学

夢の中で私は数字の一覧が書かれたノートを見ている。その数字はとある雑貨店の商品の小売価格と店のマージン率を表したものだった。あまりにも売値が安くまた儲けが少ないことに驚き、この店も大変だな、と私は思っている。
次の場面では、元気な中年女性が、路上の車の脇で、錨のマークを手で、というかジェスチャーで宙に描いてみせた。私は錨のことかな、近くの港のことを言っているのかな、と思う。
さらに場面は転換し、今度は、たくさんの通行人が街頭インタビューを受けている映像を私は見ている。あまりにまずくてひどい食べ物を食べた人たちがその後どうなったか、という内容だ。その食べ物が何を指すのかはわからない。みな口々に、それを食べた後数日間後遺症に悩まされたと言っている。一人の女性は、未だに後遺症が癒えず、たった今まで冷たい雨の中にいたのかというような濡れ鼠状態で、青白い顔をし、唇をガタガタと震わせている。そんなにひどい食べ物だったのか。

この夢は、きっかけとなった前日の出来事を特定することと同時に、一つの場面ごとに〈自由連想〉を働かせて、個人の生活史を遡り、その詳細に至らなければ、決して理解できない。例えば、学校=規則というように、夢形象を一般的意味の中へ解消してしまいたい誘惑に駆られることが間々あるが、今回のこういった夢をそんな典型夢のように〈象徴解釈〉しても全く意味がない。この夢の形象が何かの象徴だとしたら、それは当人の生活史の一部に残存している何らかの感情や気分の固有象徴なのである。フロイトの言うように、夢見た当人による〈自由連想〉によらなければ、夢判断はお手上げ状態となる。

この辺りの事情については、レヴィ=ストロースの次の言葉が参考になる。

「(未開社会における)分類の原理に公準はない」というのが事実である。それは民族誌的調査、すなわち経験によってのみ、帰納的に取り出せる。」『野生の思考』(大橋保夫訳)

未開社会における動植物や鉱物、天体等自然対象の分類体系はそれぞれの部族によって独特の基準があり、どの部族にも当てはまるような普遍的な公準があるわけではない、というのである。その社会に分け入り、ある植物がそこではどんな意味付与をされているか、ある動物とその部族の人たちはどんな関係性にあるのか、といったことを経験的に感取することによってのみ、その分類体系の基準が理解できるようになる。レヴィ=ストロースはそう言っている。

ここでいう「分類の原理」を「夢の意味」に置き換えれば、ここでの私たちの話にもほとんど同じことが言えるということに気づく。

夢の意味に公準はない。誰にとっても当てはまるような、いわゆる「象徴」の一義的意味に夢形象を解消してしまうことはできない。それは、民族誌的調査ならぬ〈自由連想〉によってのみ経験的に取り出すことができる…私たちは夢の形象を何らかの象徴に還元するのではなく、当人の生活史に傾聴することによってのみ、その固有な文脈の中でのみ初めて理解することができる

では、夢における「橋」や「落下」、「歯が抜ける」等といった形象群においてはどうだろうか。それらは、おそらく歴史的にも現在的にも多くの人たちによって共有される典型夢、一般夢であると言っていいと思う。誰もが同じように見るような、万人に共通する夢形象なのだから、それらは一義的な〈象徴解釈〉によって理解すれば足りるのではないか?

ここでは、吉本隆明氏の『心的現象論序説』から次の言葉を引用すれば、足りるだろう。

「一般夢においては、夢の形像は夢みた個人の心的な世界を、ある共通性のところで捉える。しかし、このばあいも形像が万人に共通な心的な世界の表出であるのではない。だからいかなる意味でも夢の形像を記号の体系に還元することはできない。その意味では固有夢と別のものではない。ただある度合で抽出するときに、はじめて夢みた個人の心的な世界は、他の諸個人にとっても共通の位相におかれるのである。」
『心的現象論序説』

ここで言われているのは、「橋」や「落下」といった典型夢、一般夢においても夢形象を、意味するものと意味されるものが一対一で対応するような一般象徴や記号の体系に還元することはできない、ということである。それら一般夢、典型夢も諸個人に固有な夢と別のものではない…〈象徴解釈〉によってのみ理解できるような純粋なる一般夢、純粋なる典型夢というのは有り得ない。それは身体のない観念を身体と思い込むようなものである。固有夢が万人の夢に共通する形象を含む場合があるとしても、それを象徴の一般的意味に解消してしまうことはできない。一般夢もまた夢見る個人の固有な生活史的文脈の中に位置づけられて、つまり〈自由連想〉によってはじめて身体を持つ。

慣用的表現が個々の場面に流れる文脈のなかで使われることで、初めて命を吹き込まれるように、一般夢、典型夢も個々の生活史の文脈に位置づけられて初めて命を吹き込まれる。

私が自分のみた夢を記述するにあたって、ただ夢の内容を描写、記述するだけでそれを〈象徴解釈〉に委ねて済ますというわけにはいかない、それでは読んでくれる人たちにとって全く意味をなさないと思い、夢の記述に、その夢の分析結果も付記することにしたのは以上のような理由による。そうすることで、諸個人に固有な夢は、他者にとっても意味あるものとなるように思う。

因みに冒頭の夢における雑貨屋さんの売上に関する夢は、前日のある出来事によって、かつて自分が関わった仕事に関する記憶が呼び起こされ、夢形象となって反復したものだ。錨のマークによって意味されているのは、施設としての港ではなく、「港」が付く地名である。私はかつてその地で仕事をしたことがあった。それから、街頭インタビューの場面では、その地でかつて自分が心身衰弱状態のまま経験してきた仕事の無意味感や対人関係の困難さが味覚に代替されて表現されているということらしい。それがテレビの画面に映し出されているのは、その頃の経験を自分のこととしてではなく、遠いテレビ画面の向こう側に投影することでしか認知できなくなっているからだろう。フロイトが想定した夢の〈検閲官〉はこんなところにもいて、当時のしんどさや不安に直面することを回避させてくれているようだ。この直面を回避させる意図は、味覚という、もとの夢の潜在内容における痛みとはかけ離れた感覚器官に代替させるところにも現れている。また、私はよく心身の衰弱状態を「濡れ鼠」に喩えることがあった。タルフスキーの『ノスタルジア』という映画に影響されてか、底もなく沈んでいく気分をずぶ濡れ状態に類比してイメージすることがあった。その映画では、主人公が廃院の水の中を彷徨う場面がある。そんな無意識が夢の形象に変換されている。

このように、夢から〈自由連想〉される諸個人の生活史的事実に言及することで夢は諸個人の生活史全体の文脈に位置づけられ、鮮やかに意味を帯びるようになる。

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