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夢を弔う

私は見知らぬ駅を目指して碁盤の目のような街の路地を歩いていた。この辺りを曲がればいいかな、と思い角を曲がる。すると視点は移動し、駅の反対側の町の光景を斜め上から見下ろしている。田舎の小さな駅の周辺、不動産屋の受付のような、という印象の紺色の事務服を着た中年の女性が軽自動車を運転して粗末な駐車場、というより空き地に滑り込んで行く。捨てられた廃コンクリートで周囲を固められたような、砂利を敷かれただけといった、草の生えたような空きスペース。車の女性は駅前の不動産屋に入っていく。彼女はそこの事務員なのか。その不動産屋は駐車場を管理しているところで駐車料金を払うために何人かの男たちが並んでいる。となりには駅前の公衆トイレがある。

自分の見た夢など自分以外の他人にとってはなんの意味もないが、どうしてもこの夢を記録しておかずにはいられない、と思う。

夢とはもとより個人の気分や思考や欲望の象徴表現であり、他人には窺い知れない固有な象徴群の連鎖と継起である。しかし、もしその固有性を、新たな夢の一般理論によって照射し得たならば、自分の夢も他者にとっても意味あるものとなるし、他者の夢も自分にとって貴重なものになるだろう。その一般理論は心理療法の文脈で語られるものばかりではなく、ごくありきたりの日常夢をも包括するものでなければならないだろう。そのような一般理論は興味のある人たちによってそれぞれの家に持ち帰られ、パーソナライズされ、それぞれの夢を益あるものとする解読格子となるだろう。

アカデミズムから遠く離れた場所で、自分や他人の夢、また先人たちの夢理論を夢喰いの獏のように収集しているうちに私はいつしかこんな、新たな夢の一般理論の創出という〈夢〉に取り憑かれてしまったらしいのである。それはひとえに夢の、はかりしれない表現力への驚きと畏怖の念による。

今回の夢における駅周辺の光景は現実によく知っている。かつて年末などに何度か訪れたことのある寂れた観光地のものだ。なぜこの閑散とした、普段は静かな観光地の駅周辺が夢の舞台になったのか。一見、なんのことやらさっぱりわからない。この夢の形象一つ一つに集中してみたところでなんの連想も湧いてこない。夢の基本は、前日のあるいは睡眠中の刺激に対する印象や欲望、感情、思考の残滓が類比的に構造反復したものである、ということであるが、それを念頭に置いたとしても、この夢がどの出来事に対する印象、感情、思考を構造反復したものなのか、思い当たる節が全くない。不動産屋の光景も鄙びた駅前の公衆トイレの光景も前日にどこかで目にした覚えはなく、ましてや軽自動車に乗った紺色の事務服を着た女性など全く見ていない、これらの形象と何か似た光景というのも全く思いつかない。まるで目が霞んで何も見えなくなったようである。私たちはこういう時、どこに焦点を合わせるべきなのであろうか。

わけがわからないのだから解釈を放り出してしまえばいいとも思える。そうすればその日見た夢のことなどすぐに忘れて、いつもの日常生活に没頭できる。それで生活にはなんの支障もない。しかし、街をさまよう霊魂にでも取り憑かれてしまったかのように、私の夢は意識に取り憑いて離れないのである。念仏を唱えて成仏を促すように、解釈と分析を施さない限り、夢は私を解放しないだろう。いつまでも私に取り憑いて日常生活に没頭する意識に侵入し、仕事を撹乱するだろう。

ところでフロイトは言う。

さてこの技法(自由連想法ー引用者注)を使う際の心得は、夢全体にではなく、個々の断片に注意を向けるべきだ、ということである。まだ慣れていない患者に「この夢についてどう思いますか」と尋ねても、ふつう、答えは返ってこない。夢を小分けにして質問すると患者は、その断片についてなら何事かを思いついてについて話してくれる。そして、この思いつきこそが、背後にある「隠れた動機」に繋がるものなのである。
(『夢判断』大平健編訳)

しかし、今回の夢では個々の場面からはなんの連想も湧かないのだから、視点を変えてみないといけない。

たいていの夢では、風景は身体であり、身体は風景である。身体とは、時に伸長したり、時に収縮したり、また条件によっては凍結したりするもう一つの身体、不可視の時間的身体のことである。

ここでは個々の断片よりも、如何なる身体の時間性がこの夢全体に裏張りされているかを問うべきなのだと思える。夢においては偶然や気まぐれはなく、裏張りされている身体の時間性によって形象は呼び寄せられ、結合され、編集されている。偶然として片付け無視できる形象はない、というのが解釈の原則である。夢がとんと理解できない、という時、それは裏張りされている時間性が見えないということになる。時間性こそ覚醒と眠りの境界を跨ぎ越して無意識界に着床し、夢の形象を形成する核であり原基である。

この時間性は、映像作家や写真家が風景やロケーションを選ぶ際にもっとも重要となるものだと思われる。無意識裏にかあるいは意識的にかそれは、クリエイターたちの選択を規定する。なんと言っても自分が選ぶ風景によって、自分が表現したいと感じている、気分や雰囲気や情緒や思考と全く違うものになってしまう可能性があるのだから。

文芸作家ならば、あるいは、屋内のセットやCGでならば自分の表現したいとものを自由に創作してしまえるかもしれない。それでも、その風景創造の現場で全てを規定しているのは作家の時間性であるという本質は変わらないだろう。それは、細部の造形や物と人物の配置の妙にいたるまで作用するだろう。作家の時間性という神は細部に宿る。

夢においてはこの〈作家〉はたいてい前日の出来事への反応の残滓として覚醒時の経験からやってくる。彼は、覚醒と眠りの国境を苦もなく越境して夢見者の無意識の映像ストックから自らのモチベーションにふさわしい形象を選び縫い合わせ、配置、編集する。そして、ナレーションや説明もなしに形象の連鎖と継起を夢見者に放ってよこす。私たちはこの作家のモチベーションに相当する時間性の質そのもの、形象群を吸着する磁力そのものに着目しようと思う。そして演繹的に個々の夢の断片に還っていくのである。

今回の夢における寂れた観光地の一連の形象の背後に見えるのは、過疎地帯の冬の鉛色の曇天のような、展開や増殖を欠いた、ある停滞した時間性の感覚である。その冒頭における場面を見てみると、わたしはある方向性の感覚を持って見知らぬ街を駅に向かって歩いている。そこには目的があり時間的なベクトルがある。そして、目的の駅があると見当をつけた角を曲がった途端、思いもよらず目的地とは違う駅の反対側の寂れた風景の中にいる。

目的に沿ってある方向を目指しながら、その目的とは少しずれた場所に風景が飛び、しかもそこは思いもよらずひどく寂れた場所である…この継起的な時間の流れに集中してみた時、私は、これとそっくり同じことを寝入る直前に内面の動きとして経験していたことに気づくのである。

それは眠る直前のことだ。私は必要があって過去に自分で書いたある文章を読み返していた。その文章は目的に向かって進行しつつも蛇行を繰り返し、危なげな足取りで、今にも破綻しそうな、見ていられない代物だった。この程度の論理で、とか、この程度の文体で、とか、自分で自分を揶揄する声を聞いた。そしてそのなんともお粗末な、程度の低さに落胆し、呆れ、失望し、気分が鉛色の曇天のほうへ拡散していくのを感じたまま眠りについたのである。

この寝入る直前の内的体験と夢の背景に流れる時間性の感覚が同型の心理パターンとして構造的に吸着同期した時、ミステリー小説の大団円のようにこの夢の謎の全ては了解され、意識に取り憑いていた私の夢はまるで念仏を施され、安心して本来あるべき天へと昇っていく死者の魂のように、私を解放したのである。
夢の解釈と分析とは死者の葬送や供養と本質を同じとするようだ。精神の浄化装置としての心理療法もまたきっとそうだろう。私たちは分析や解釈によって日々夢を供養することができる。それによって時間性は形態と言葉を与えられ浄化と解放の感覚に満たされる。

今回の夢は単純化して言ってしまえば、ありふれた気分を映し出した日常夢であるにすぎない。しかし、そのありふれた日常夢においてもまさに外的出来事に対する内的反応の類比的な構造反復である、という夢の原則が揺るぎなく実証されていると言えるのではないか。

どうしてもこの夢を記録しておく必要があると思ったのは、原則、法則は常に如何なる現実をも貫くものだ、ということに大いに感銘を受けたからである。

ここで演繹的に夢の個々の形象に還ってみよう。駅に向かって歩いている街の路地は、寝入る直前に読んでいた文章の流れを追っている内的体験の反映である。目的地に向かっているが、そこに到着する前に自分の文章への落胆が夢を駅の反対側の寂れた風景へと飛ばしていった。そこでの光景は寝入る前に自分の文章を読んでいる時と同じ、私の時間感覚の停滞を表象するものばかりだ。私はいかなる事態であれ行列に並ぶのが本当に嫌いだし、駐車場に使われた粗末な空きスペースや寂れた駅前の公衆トイレは沈滞した気分を映し出す鏡であるかのようである。不動産屋は過去の経験から複雑な事務手続きややっかいな権利関係を想起させ、いつも心を摩耗させる。

これらの形象群が、同じ時間性によって無意識の世界から呼び寄せられ継ぎはぎされ、あたかもストーリーを持っているかのように物語化された。ここで注目すべきなのは個々の形象よりもその背景に共通して流れる時間感覚である。一つ一つの形象はその時間構造の固有象徴である、とみなされる。

仮に前日に私が読んでいた自分の文章が論理的にも文体としても満足のいくものだったとしたら、夢はどのようなものになっていだだろうか。おそらくそれは次のような物語を形成したことだろう。

私は見知らぬ駅を目指して碁盤の目のような街の路地を歩いていた。この辺りを曲がればいいかな、と思い角を曲がる。すると道は駅へとまっすぐ続いていた。駅前広場には市がたち祭りのように大いに賑わっている。私はいつのまにか数匹の子猫を腕に抱いている。広場の人出の中には、どうも娘と息子の姿もあるようだ。子どもたちは、小さい頃のままだ。

ちなみにここでいう時間性とは、以下のような吉本隆明さんの言葉を念頭において使用しているものである。私たちは、いずれ夢の象徴性について考える時、再び吉本隆明さんの時間性の概念に着目することになるだろう。

生理体としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、時間性によって(時間化の度合によって)抽出することができ、現実的な環界との関係としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は空間性(空間化の度合)によって抽出することができる。

たとえば古典哲学が〈衝動〉とか〈情動〉とか〈心情〉とか〈理性〉とか〈悟性〉とかよんでいるものを、身体から疎外された心的な領域とみなすばあい、それらは心的時間の度合とみなされるということである。たとえは、〈衝動〉とか〈本能〉とかよばれる心的な領域は、有機的自然に固有な時間と対応させることができる。〈情緒〉とか〈心情〉とかよばれているものは、もはや有機的自然の時間性と対応させることができないし、そこでの時間化度はより抽象され、この時間化度の抽象性は〈理性〉とか〈悟性〉とかと呼ばれているものでは、もっと高い。
『心的現象論序説』

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