夢の中の光の研究

久しぶりに、かつて慣れ親しんだ、とある小さなバーのご主人に会いに行ったところ、その建物はリフォーム中になっていた。ご主人もいるし、ほかのお客さんも何人かいるのだが、建物の中は、黒ずんだコンクリートが剥き出しになっており、まるで解体を待つ廃工場のようにがらんとしていて寒々しかった。建物の半分は実際解体が始まっているようだ…と思ってよく見ると、建物自体が老いて、壁が自然に剥がれ落ち、年老いた人間と同じように柱が老いて縮み、皺ならぬ亀裂があちこちに走っているのだった。あるいは火災の後に燃え残って立ち続けている柱の一部、といった印象…ご主人がいつもの明るい口調で何か言いながら、出口に歩いていく。ぼくらも重い扉を開けて外に出る。

ぼくは夜の街に出て、賑やかなはずのデパートらしき建物の2階へと昇る。そこで何かの集まりがあり、「宴」が催されるはずだった。しかし、視界も気分も全体が薄闇の中にあり、人の気配はあるものの音と光に乏しい。「宴」はあるか無きかのごとくで印象に乏しく、記憶に残っていないのだった。

次の場面でぼくは寝静まった、郊外の静かな住宅街の小ぎれいな街路を歩いている。一軒の工事中の家から、知り合いの青年がでてきた。丸坊主にランニングシャツ。まるで一昔前の、古き昭和の子どものような格好ではないか。周囲をよく見るとそこらじゅうの家が工事をしているのに気づく。だが背景には星のない夜空があり、柱ばかりが立っている建設中の家には活気がまるで感じられない。ぼくらは連れ立って自治会か何かの集まりに出る。そこにも沢山の人たちがいるが、音と光に乏しい。集会所の狭い部屋。ぼくらは地域史編纂のような仕事をしていて、一冊の本を作っているのだが、どうにも内容が退屈な代物なので、とある有名な作家さんに紹介文を書いてもらおうということになった。その作家さん、Kさんは、躊躇しながらも仕事を引き受けてくれた。Kさんが書いてくれたその紹介文を読んだとき、鮮やかな光が夏の吹き上げ花火のようにが立ち現れるのを見た。ただの紹介文だというのに、その文章には〈詩があった〉。そういう表現以外思いつかないほど充実した文章だったのだ。本の内容自体の退屈さとは対照的だった。

混沌とした世界を把握しようとする時、よく人の知性がそうするように、「分類と整理」あるいは「分節化と統括」という方法でもって、まずはこの夢を把握してみたい。ストーリーの流れからしてこの一連の夢は、三章構成になっている、と、まず単純に理解することができる。第一章は、夢の視点人物が、小さなバーの主人に会いにいくという物語であり、第二章は、〈宴〉の物語であり、第三章は、自治会による書物編集に関わる物語である。

夢の中で薄闇の街を彷徨している視点人物によってこの三つの物語は連続性を与えられている。

もう一つ、この夢は、大方薄闇に包まれているのだが、最後の場面で、夏の吹き上げ花火のように光が立ち現われるところは、それとは対照的である。この対照性を基準にして、「闇と光」の二層構造としてこの夢を把握する視点を設定できるのではないかと思う。

「光」が立ち現れるのは、第三章の最後だけではないか、とも考えられるが、仔細に夢を観察してみるならば、実のところ、第一章にしろ第二章にしろ、潜在的に「光」の層が存在しているということがわかるのである。

第一章は、夢の中の視点人物が小さなバーの主人に会いに行くという物語だが、そのご主人の明るい人柄に惹かれて楽しい時間を過ごすために夢の中の視点人物は、店に向かうわけである。具象的な像をいったん取り払って夢の明度、光度だけに集中してみるならば、楽しいひと時という「光」を求めるストーリーになっていることがわかるのではないか。

どういうわけかその「光」を求めるストーリーは、リフォーム中の、廃工場のような建物の暗いイメージによって頓挫してしまう。しかし、頓挫してもしなくても「光」の層が潜在していなければ、この夢は成立しない。ハッピーエンドを目指しながら、悲劇に終わってしまう昔話のようなものだ、と言えそうである。目指すべきハッピーエンドがなければ悲劇も起こらない。

第二章も同様に「宴」という「光」に満ちた祝祭空間を求める物語になっているのがわかる。しかし、ここでも沈滞した夢の薄闇によってそのストーリーは頓挫してしまう。「宴」は実現しなかったのだ。しかし、やはり「光」への衝動がこのストーリーを駆動しているという点は、第一章と同様である。光の層は潜在したままであるとは言え、予感されているのである。

前の二つの章で頓挫した「光」への旅路は、第三章によって、ようやく終局を迎える。ここで、それまで潜在していた光の層が、ようやく顕在化するのである。それを顕在化させたのは「言葉」であった。

「光」と「闇」の階層構造を解釈上設定しなければならないのは、以上のような分析をみれば明らかになる。

ところでこの夢をみる前の日、ぼくは二冊の本を読んだことを思い出す。一冊は、民俗学の研究書で、地域住民が関わる祭事を取り上げているのだが、その祭事の古代的象徴性よりも、社会的意味に重点を置いている内容のものだった。
その本を読んでいる時、ぼくはひどくがっかりしたのを覚えている。一地域の祭事の意味を解釈するのに柳田國男等、過去の民俗学的な研究成果を持ち出すのはいいとして、その後は祭事の象徴性や本質的意味から遠く離れ、地域内で誰によってどのように行われてきたか、どうすれば継続できるかといった方向へと話が流れ、ぼくにとってはさして興味のない展開になっていった。

もう一冊は、日本の精神科医で多くの著書をもつ中井久夫氏の本だった。ぼくはこの中井氏の本を読んでいる時、夢の中と同じように、歓喜しながら〈ここには詩がある!〉と繰り返し思ったのだ。実際、中井氏の本には、それが一般読者向けのものであろうと、専門家向けの論文であろうと、読者の魂を燃え立たせるような〈詩〉を読むことができる。そこには類比的想像力と喩に満ちた、透徹した理解に基づく的確な言葉があり、患者さんに寄り添う暖かい眼差しがある。その中井氏の文章を、言葉の本質としての〈詩〉と表現する以外他に言葉が思いつかないのだった。

夢の前日に読んだこの二冊の本が、この夢の「光」と「闇」の二層構造に対応関係を持っているのがここでわかる。夢の置換機能によって、中井氏の文章は、夢の中では、作家のK氏の紹介文に置き換えられているが。また、前著は、退屈な自治体史関連本ということになっているが。

ここで断っておかなければいけないのは、前著についての先の評価は主観的なものであり、自分にとっては、という意味しか持たないということ。あるいは、この夢の視点人物にとってはあまり興味深いものではなかった、というに過ぎないということ。社会学や地域史料アーカイブのような別の視点で見るならば、それは優れた研究と記録の書である、ということ、である。

ここでもう一つ、夢の細部と現実の出来事を文脈化しておかなければならない。夢を豊饒なテクストたらしめるのは、夢と、その数日前までの現実の出来事と、それによって喚起された印象、感情、思考を一つの文脈に位置付けていく緻密な作業による。

この夢をみる前夜のことだが、ぼくは、引きこもりの娘のことで、妻から相談事を受け、その内容がいささかぼくを意気消沈させ、鬱々とした気分のまま眠りについた、という事実があるのである。この気分が、先に触れた退屈な本(主観的には、である)の印象と影響し呼応しあって生理的生命感覚を下降させ、この夢を一様に覆う薄闇の空間を生み出したのだ。それから、黒ずんだコンクリート壁や音と活気に乏しい街の光景を。
この夢ではリフォーム中だったり、建築中だったりといった建物が所々出てくるのだが、生理的生命感覚が上昇曲面にある場合は、それらは明るく活気に満ちた「槌音」を響かせて、街全体を生まれ変わらせようとするかのごとくだったろう。しかし、今回の夢では建築中の建物は中途で停滞したまま薄闇に覆われて、枯れ木のように生命を失っている。

ここまで理解が及ぶと、この夢は、前日の出来事を忠実に反映した私小説のようなもの、ともいうことができるようになる。事実をあるがままに表現するのではなく、喩的に映像化するという違いはあるが。

それにしてもこの夢も各章が同じテーマのもとに反復しているオムニバス夢である。ただ第三章に向かっての展開があるので並立的反復ではなく、系列的な反復、あるいは、展開的反復と言うべきではある。


#夢分析

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