火と水の夢

火事だ。深夜の街路を進んでいくと、突然窓から火を噴くビルが目に飛び込んできた。鮮明で恍惚とした、悪夢の中の夜…火の粉が飛び散り、熱まで伝わってくる…

はっとして深夜に目覚めると、ぼくの左手は寝衣のポケットに入っていたカイロに触れていた。前日に使っていたのが、なぜかたまたま寝衣のポケットに入っていて、それはまだ熱を持っており、熱いくらいだった。

別のある寒い冬の晩のこと、夢の中でぼくは上半身服を脱ぎ、部屋の窓を開けて暗い空を見上げた。冷たい雨が部屋の中にまで吹き込んできて、ぼくは震えながら、雨に打たれていた。

暗い部屋の中で目覚め、目を開けた時、ぼくは掛け布団も毛布も払いのけて、上半身に何もかけないまま眠っていたのに気づいた。とても寒かった。

この二つの夢の場合、ニーチェの次の言葉がそのまま当てはまりそうだ。
『(夢とは)眠っているあいだのわれわれの神経の刺激の解釈であり、血液や内臓の運動の、腕や布団や圧迫の、鐘楼の鐘の音や…その他と同じようなものの、非常に自由な、非常に勝手な解釈なのである…』
つまりこれらの夢は、意識のない状態における感覚刺激への無意識の反応であるに過ぎない。
目覚めた意識なら「熱い」と思うだけのところで夢はそれをドラマの中のような火事の場面に置き換え、また同様に目覚めた意識なら「寒い」と思うだけのところで、上半身裸の男が雨に打たれて寒がっているという、まるで一枚の絵のような像に置き換える。

とても単純なこれらの夢によくよく思考を巡らせるならば、こういった夢が、実は夢の本質とは何かを如実に物語っているということに気づく。つまり、夢とは現実的〈関係〉によって喚起される感覚印象、感情、思考を、日常意識の生活圏内にある事象あるいは具象的イメージに置換するシステムであるということなのである。夢は思考する代わりに、主題を、よく見知った日常的事象のイメージの展開と連鎖に置き換える。

#夢分析

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?