夢のフィールドワーク

夢は思考の対象である。様々な芸術作品同様、そしてあらゆる街の景観同様、夢は貴重なフィールドワークの一環なのである。それは、思考の対象とすることによって、個人的文脈を超え、やがて上昇と下降の純粋形態を浮かび上がらせる。

その夢の中でぼくは家路を急いでいた。その夢の街は見たところ郊外の住宅街といった風情なのだが、所々に古い農家の木造家屋の痕跡が残っている。華やかな都会で突然古めかしい寺院の門構えに遭遇するように、家々の塀と塀の間に昔の納屋のような印象の建物の痕跡が見られたり、小洒落た煉瓦造りの家の隣に蔵が建っていたり…もともとの農村地帯が、近くに鉄道駅ができたことで、郊外の住宅街に変わったといったところだろう。だが開発はひどく中途半端で、破壊されるべき古い時代の遺物があちこちに散見される。そこには、新しい街に古い要素を生かして取り込んでいるといった意図は感じられない。まるで住宅地の所々に古い地層が露出しているといった風だ。徹底性が足りない…

さてぼくが家に帰るにはこの街の古い地層にあたる、草木が鬱蒼と生い茂る藪の中を通らなければならない。その藪の中には、まるで忘れられた公園の滑り台のような、古い錆びた鉄階段があり、それも藪で覆われている。それを昇っていかなければぼくは家に帰れない。しかし、どう見てもその藪の中は虫の王国になっているに違いなく、とても通り抜ける気にはなれない。毛虫もうようよいそうだ。たしか廻り道があったはずだが。そちらを選んでもいいのではないだろうか…しかし、なぜか選択肢にその廻り道はない。ぼくは勇を鼓して藪に入って鉄階段を昇っていく。息を詰め、目をぎゅっと閉じて。やがてよく名前はわからないが、背が高く、柔軟な枝を持った樹木が目の前に現れた。ぼくは、その木に、やあ久しぶりといい、枝に飛び移る。するとキリンがおじぎをして頭を地面につけるように、柔軟な枝がおじぎをしてぼくをゆっくり地面に下ろしてくれる。その枝をよく見ると、生まれたてのタケノコがそのまま変色せず、やわらかいまま竹になったような筒の中に、新鮮なトウモロコシのような組織が妊まれつつあるのだった。

この夢を腑分けしてみると、家に向かおうとする上昇力に、古い町並みや藪といった下降力が対抗している、ということができる。下降力が勝る時、夢は悪夢になる。上昇力が勝る時、何か新鮮な、生まれたての、といった印象の表象が、夢のどこかに現れる。この夢の中の柔軟な枝を持った親しい樹木のような。

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